斉藤時頼 (SAITO Tokiyori)
斉藤 時頼(さいとう ときより、生没年不詳)は、平安時代末期の武士。
斉藤茂頼(疋田斎藤氏)の子で、母を早くになくした。
身長は6尺(180㎝)近くあったという。
恋人「横笛」への思いを断ち切るために出家し、「滝口入道」と呼ばれる。
この悲恋は『平家物語』にあり、1894年に高山樗牛がそれらを題材に『滝口入道』を発表し、有名になった。
宮中警護に当たる滝口武者(滝口の武士)であったため、これが出家後の名前の由来となる。
また、六波羅武士でもあり、内大臣・平重盛に仕えていた。
恋人・横笛への思いを振り切るために出家。
その後修業を積み、高野山真言宗別格本山の大円院の第8代住職にまでなった。
横笛との悲恋
時は平家全盛の時代。
時の権力者平清盛(重盛の父)は、わが世の春を謳歌していた。
ある日清盛は、西八条殿で花見の宴を開催し、斉藤時頼もこれに参加していた。
このとき宴の余興として、建礼門院(重盛の妹)に仕えていた横笛が舞を披露した。
それを見た時頼は横笛の美しさ、舞の見事さに一目惚れしてしまった。
その夜から横笛のことが忘れられない時頼は、恋しい自分の気持ちを横笛に伝えるべく、文を送ることにした。
数多の男たちから求愛される横笛であったが、無骨ながら愛情溢れる時頼の文に心奪われ、愛を受け入れることに。
しかし、時頼の父はこの身分違いの恋愛を許さなかった。
傷ついた時頼は、横笛には伝えずに出家することを決意。
嵯峨の往生院(現在の滝口寺)に入り滝口入道と名乗り、横笛への未練を断ち切るために仏道修行に入った。
これを知った横笛は、時頼を探しにあちこちの寺を尋ね歩く。
ある日の夕暮れ、嵯峨の地で、時頼の念誦の声を耳にする。
時頼に会いたい一心の横笛だが、時頼は「会うは修行の妨げなり」と涙しながら帰したといわれる。
横笛は都へ帰る途中、自分の気持ちを伝えたく、近くの石に「山深み 思い入りぬる柴の戸の まことの道に我を導け」と指を斬り、その血で書き記したという。
滝口入道は、横笛にこれからも尋ねてこられては修行の妨げとなると、女人禁制の高野山静浄院へ居を移す。
それを知った横笛は、悲しみのあまり大堰川に身を沈めたとも、奈良・法華寺へ出家したとも伝えられる。
横笛の死を聞いた滝口入道は、ますます仏道修行に励み、その後高野聖となった。
大円院の第8代住職を務め、元暦元年(1184年)には、紀州の勝浦で平維盛(重盛の子)の入水に立ち会っている。