岡本喜八 (OKAMOTO Kihachi)

岡本 喜八(おかもと きはち、1924年2月17日 - 2005年2月19日)は日本の映画監督。
本名は岡本 喜八郎(おかもと きはちろう)。

経歴

鳥取県米子市出身。
米子商蚕学校(現鳥取県立米子南高等学校)卒業後上京し、明治大学専門部商科卒業後、1943年に東宝に入社し助監督となる。
しかし戦局の悪化に伴い招集され、松戸の陸軍工兵学校に入隊、豊橋陸軍予備士官学校で終戦を迎えた。
この豊橋滞在時に空襲で多くの戦友たちの死を目の当たりにし、戦争に対する大きな憤りを抱く。

復員後東宝に復帰し、マキノ雅弘、谷口千吉、成瀬巳喜男、本多猪四郎らに師事して修行を積む。
1957年に東宝が石原慎太郎に自作『若い獣』を監督させると発表したことに助監督たちが反発、シナリオ選考で一人監督に昇進させることが決まり、岡本が「独立愚連隊」「ああ爆弾」のシナリオで認められて昇進した。
1958年、『結婚のすべて』で初メガホンを取る。
岡本のオリジナルシナリオによる、日中戦争最中の中国大陸に西部劇や推理劇の要素を取り入れた5作目『独立愚連隊』(1959年)で、一躍若手監督の有望格として注目を浴び、以降、『独立愚連隊西へ』(1960年)、『江分利満氏の優雅な生活』(1963年)、『ああ爆弾』(1964年)、『侍 (映画)』(1965年)、『日本のいちばん長い日』(1967年)、『肉弾 (映画)』(1968年)など、幅広い分野の作品を監督。
特に『江分利満氏の優雅な生活』や『肉弾』は、岡本と同年代の戦中派の心境を独特のシニカルな視点とコミカルな要素を交えて描いた作品として現在まで高い評価を得ており、生前、岡本自身も好きな作品として挙げている。

東宝退社後の1970年代後半からは、『ダイナマイトどんどん』(1978年)、『近頃なぜかチャールストン』(1981年)、『ジャズ大名』(1986年)などを監督。
『大誘拐 RAINBOW KIDS』(1991年)では日本アカデミー賞最優秀監督賞、最優秀脚本賞を受賞し、持ち味の一つである娯楽色をさらに前面に押し出した作品が多くなっていく。

1995年『East Meets West』で初の米国ロケ中に言語障害を起こし、硬膜下血腫と診断される。
その後も軽い脳梗塞などを起こし、言語が不明瞭であった。
『助太刀屋助六』では主演の真田広之が伝令など補佐役を務めた(舞台挨拶などでも傍につき、会場の反応などを伝えていた)。
ただし、インタビューや講演などではかなり古い作品についても答えているし、制作意欲も依然旺盛であった。
『助太刀屋助六』の舞台挨拶では、張りのある「ヨーイ、スタート!」の声を披露している。

2005年2月19日、食道がんのため神奈川県川崎市多摩区の自宅で死去。
享年81。
墓所は鳥取県米子市の西念寺、川崎市多摩区春秋苑。
亡くなる直前まで、最新作として山田風太郎作の『幻燈辻馬車』の映画化を構想し、配役は仲代達矢、真田広之、緒形拳ら、音楽は山下洋輔と決まり、シナリオを練っていたが、果たせなかった。

作風

技巧派の監督であり、すべてのカットをコンマ秒単位で決めた上で、撮影に臨んだといわれる。
細かいカット割りを積み重ねた映像のリズム感、たたみかけるテンポの良さは、東宝の先輩である市川崑と並んで日本映画でも群を抜いている。
ただし、女性を描くことを得意とする市川とは対照的に、男性路線であり、その長所は『殺人狂時代 (1967年の映画)』(1967年)などのアクションコメディに最大限に発揮され、宮崎駿など、当時の多くの若者に影響をあたえた。
『日本のいちばん長い日』"Japan's Longest Day"『ブルークリスマス』"Blood Type: Blue"(1978年)などの大作映画での緊迫感あふれる演出はもちろん、苦手といわれる女性映画でも『ある日わたしは』における流麗なラブシーンの演出など、無類のテクニシャンである。
また、耽美と趣味性に徹し「テーマなき作家」と批判されることのあった市川に比べ、戦争批判と明治維新批判をライフテーマとして掲げ続けた。
もちろん「ジャズ大名」のような諧謔に託すことが多いものの、「ブルークリスマス」で集会になだれ込んで参加者を残虐に殴打する機動隊の描写など、団塊世代の演出と見紛うばかりであり、反権力の人であったことを伺わせる。

三船敏郎、仲代達矢、佐藤允、小林桂樹らスター俳優に加え、中谷一郎、田中邦衛、伊藤雄之助、天本英世、岸田森、中丸忠雄、平田昭彦、寺田農、砂塚秀夫、草野大悟、高橋悦史、本田博太郎、神山繁、今福将雄、二瓶正也、岸部一徳ら、脇を固める個性派男優を再三起用し、彼らは「喜八一家」、「喜八ファミリー」と呼ばれた。
ベテランの東野英治郎、小沢栄太郎らも含め、台詞を明快に発音できる新劇出身の俳優を多く起用した点は、同世代の石井輝男(新劇俳優嫌いを公言し、娯楽作品でもしばしば確信犯的に破綻させた)と対照的であり、洗練とダンディ、ウェルメイドを至上とする職人監督であった。

1970年代以降は作品を撮れない時期も長く、不遇の鬼才という側面もある。
だが70年代に東宝が一挙に製作を縮小した際(自社製作を独立プロ並みの年間数本に減らすという事実上の製作中止に等しい大鉈であった)にも最後まで契約が続いた監督の一人でもあり、日本で最もギャラの高い監督と言われた時期もあった。
同世代のモダン派として並び称されたライバルたち(沢島忠、増村保造、中平康ら)と比べると、ある意味かなり幸福な映画人生を送ったとも言える。

映画賞などにもある程度めぐまれ、カルト的な小品も生前のうちに再評価が高まって晩年の新作に結びついた。
いわゆるプログラムピクチャーと呼ばれるような小品でも、今日でも新鮮さが失われないスマートさがあり、純粋に娯楽作品として楽しめるのが大きな特徴である。
そのため、大部分の作品が再上映やテレビ放映の機会に恵まれ、その全体的な質の高さが確認できる。
2007年にはドイツでの特集上映が行われ、これまで知られていた米国(ジョン・ミリアス監督などが熱心な信奉者と言われる)に加え、欧州での評価も高まりつつある。

影響

双葉十三郎、小野耕世、石上三登志、小林信彦、森卓也といった、どちらかというと洋画への言及が多い人々が古くから岡本喜八賛美の文章を発表してきた。
名声に比べキネマ旬報ベストテン入選は6回と意外に少ないが、11位~20位あたりで評価される異色作が多い。
公開当時評価の低かった『ブルークリスマス』の場合、当時絶賛したのは星新一、都筑道夫、田中小実昌といった一騎当千の顔ぶれであった。

作家では筒井康隆が青年時代からの熱心な喜八ファンとして有名であり、初期長編『馬の首風雲録』などでオマージュを捧げている。
『ジャズ大名』は憧れの監督による自作の映画化という夢がかなった。

アニメーション監督の庵野秀明も岡本の大ファンとして知られ、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』で“使徒”の波長パターンとして表示される「BLOOD TYPEBLUE」が、『ブルークリスマス』の英題からの引用であることは有名な話である。
同じ庵野の監督作『トップをねらえ』では、岡本の『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年)における「船が多すぎて海が見えない」、「船が七分に海が三分」などのセリフや、「砲弾○万○千発/ロケット弾○万○千発」のテロップをオマージュとして模倣しており、『沖縄決戦』がLD化された際には庵野がライナーノートを書いている。
なお、「船が-」のセリフは『トップ -』を介して著名になり、『ナイトウィザードテレビアニメ』やゲーム『おたく☆まっしぐら』などでもパロディ化(または再パロディ化)されている。

「喜八一家」は助監督も固定されがちであったこともあり、門下生監督はそれぞれ十数本をサポートした竹林進、山本迪夫の二人にほぼ絞られる。
後期としては監督昇進後も「英霊たちの応援歌」を応援監督した山下賢章、弱冠19歳で「近頃なぜかチャールストン」の共同脚本兼主演兼助監督をつとめた利重剛、プロデューサーでは「吶喊」で主演兼で初仕事を手がけた岡田裕介現東映社長が挙げられる。
特に後二者は喜八プロの零細資本をもってデビューの場を与えられた貴重な存在である。

人物

人格円満な常識家で、俳優やスタッフの人望も高く、先輩や同僚からは「キハっちゃん」と呼ばれて親しまれた。
三船敏郎は、岡本のデビュー作『結婚のすべて』にバレエ教師役でワンシーン出演し、野太いアンドウトロワの掛け声とタイツ姿で爆笑を誘う。
岡本が助監督時代から同じアパートに住み、仲がよかったため、岡本の監督昇進を祝って出演を快諾したからだという。
また、大林宣彦が東宝映画『ハウス (映画)』で商業映画デビューすることになったとき、撮影所内部から助監督経験のない大林に対する反発が強まったが、それらの人々に「新しい風を迎えて学ぶべきは学ぼう」と説得して回ったのが岡本だったという。
大林はかなり後年になってこれを人から聞き(つまり岡本が恩人風をふかすようなことは一切しなかった)、大いに感謝している。

一方で仕事に関する非妥協的な姿勢は徹底していた。
「座頭市と用心棒」で大カメラマンの宮川一夫と衝突し、結局は自分のコンテを通したことは有名だが、美術監督の西岡義信はTV映画「着流し奉行」(西岡はプロダクションの社長としてタッチ)で岡本が途中降板騒ぎとなり、プロデューサー陣が自宅玄関前で土下座してなだめたエピソードを語っている(「紋次郎も鬼平も犬神家もこうしてできた」より)。

女優の大谷直子、テレビディレクターの石橋冠、脚本家の長野洋など、岡本家に下宿・居候していた人も多く、中谷一郎に至っては数年間、岡本家に住んでいた。
1994年放映のNHKドキュメンタリー番組では大谷が岡本家を訪問し夫妻にインタビュー。
さながら懐かしい実家に里帰りする雰囲気で撮られた。
なお、ここで何らかの相談があったか偶然かは不明だが、この直後に大谷は清水紘治と離婚している。

長年名コンビを組んだプロデューサーの田中友幸は、一方では東宝特撮映画の育ての親として有名だが、岡本が特撮嫌いを公言していた(自作に権限外のパートが混在するシステムが相容れなかったと思われる)こともあり、彼にその種の企画を振ることはなかった。
唯一、小松左京の「日本アパッチ族」がクレージーキャッツ主演で撮影直前まで至ったことがある。

ディレクターズチェアにほとんど座ることなく助監督以上にこまめに立ち働く演出ぶりは、見学者に「監督はどの人でしょう?」と尋ねられ、照明監督を指してとぼけたというエピソードにも表れている。

また、作曲家佐藤勝との長年のコンビは、その質と量において日本映画でも屈指の偉大な協業である。

エッセイ集や絵コンテ集のほか、小説として『スイートホームズ探偵』『トッピン共和国独立記念日』などの著書がある。
「助太刀屋助六」の原作等として生田大作(いくたおおさく)のペンネームをもつが、これは川崎市内の岡本の住所に由来している。

風呂嫌いで、1週間に1、2度しか風呂に入らないことも珍しくはなかったという。
そのため、汚れが目立たないよう、常に全身黒尽くめの服装で通していた。
趣味は登山とスキーで、助監督時代は山岳ロケのある映画にはよく起用された。
1960年には、当時のスキーブームに乗った作品『大学の山賊たち』を監督している。

家族

映画プロデューサーでもある監督夫人の岡本みね子は、早大映研在籍時に、まだ新人であった当時の岡本監督に取材したのがなれそめ。
CMで夫妻共演したこともある。
家庭、仕事の両面において陰に陽に喜八監督を支えた。
ことに3本の日本アート・シアター・ギルド映画や『大誘拐』における夫人の貢献計り知れない。
岡本が「自宅の襖に写してでも撮りたい」という映画のために、自宅を抵当に入れることはもちろん、知り合いから定期預金を集めてこれを抵当に銀行から借入れる等、資金集めに奔走した。

晩年の介護生活が、NHKのドキュメンタリー『神様がくれた時間 ~岡本喜八と妻 がん告知からの300日』のタイトルで2007年5月18日に放映された。
再現ドラマは、岡本役が本田博太郎(『英霊たちの応援歌』でデビュー)、みね子夫人役が大谷直子(『肉弾』でデビュー)と、岡本と関係の深い俳優たちによって演じられた。

『ジャズ大名』の松枝姫を演じた岡本真実は娘。
『大誘拐』では誘拐団の一人と親しくなる農村の娘を演じ、『助太刀屋助六』(2001年)にも敵討ちの女役で出演している。

[English Translation]