往相回向 (Oso-eko)

往相回向(おうそうえこう)とは、浄土真宗の重要な教義で、還相回向(げんそうえこう)に対する言葉である。
中国の曇鸞の主著『無量寿経優婆提舎願生偈註(往生論註)』のなかに、自分の行じた善行功徳をもって他の人に及ぼし、自分と他人と一緒に弥陀の浄土に往生できるようにと願うことが往相回向であるとする。

親鸞は、往相回向も還相回向もともに、阿弥陀仏によって回向された他力によるものであるとして、自分の力をたのんで善行功徳を行じる自力を排した。
すなわち、すべてが阿弥陀仏の本願力によるものであるとしている。

教行信証

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。
一つには往相、二つには還相なり。
往相の回向について真実の教・行・信・証あり。
(『顕浄土真実教行証文類』)とある。
それぞれを、親鸞は次のように説明している。


それ真実の教を顕さば、すなはち大無量寿経これなり。
この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。
釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。
ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。


つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。
この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。
極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。
ゆゑに大行と名づく。
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。
すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。


つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。
大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。
この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。
この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。
しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。
なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。
たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。
ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。


つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。
すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。
また証大涅槃の願と名づくるなり。
しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。
正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。
かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。
常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。
寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。
無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。
無為法身はすなはちこれ実相なり。
実相はすなはちこれ法性なり。
法性はすなはちこれ真如なり。
真如はすなはちこれ一如なり。
しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。

他力

以上のように、凡夫が浄土に往生する相(すがた)を、教・行・信・証とで説明する。
教とは『仏説無量寿経』に説かれる阿弥陀仏の発願の経緯と、その願そのものと、仏の智慧と慈悲によってすべてが回向されていることを明かす。
行とは、凡夫が往生のために行う行ではなく、阿弥陀仏が行じ終わってその功徳を凡夫に回向するとする。
信も、凡夫が阿弥陀仏を信じるのではなく、本願の力によって信が凡夫に回向されるものである。
証もまた阿弥陀仏によって仕上げられたものであり、それが回向されるとみるのである。

このように、教行信証すべてが阿弥陀仏によって仕上げられて、それが凡夫に回向されていると見ることから、他力回向といい、他力本願と言うのである。

[English Translation]