理趣経 (Rishu-kyo (Principle of Wisdom Sutra))

『理趣経』(りしゅきょう)は、「金剛頂経」の第6会にあたる密教の経典である。
主に真言宗各派で読誦される。
サンスクリット名はadhyardhaśatikā prajñāpāramitā(『百五十頌般若』)。
『理趣経』という場合は、「大楽金剛不空真実三摩耶経」(たいらきんこうふこうしんじさんまやけい、大いなる楽は金剛のごとく不変で空しからずして真実なりとの仏の覚りの境地を説く経)、あるいは「般若波羅蜜多理趣品(はんにゃはらみたりしゅぼん)」の略である。

沿革

一般的には、不空が763年から771年にかけて訳したといわれる。

しかし玄奘訳の『大般若波羅蜜多経・第十会・般若理趣分』が『理趣経』の異訳と見做されるため、『理趣経』は「般若経」系テキストを原流として、『真実攝経』を編纂したグループが密教経典として発達させたものであると考えられている。

概要

この経典は『般若波羅蜜多理趣品』(原タイトルは『百五十頌般若』)とあることから、般若部の経典とされているが、内容的に見れば方等部の密教経典群に位置するという見方もある。

真言宗では、根本経典である『大日経』と18会からなる「金剛頂経」系テキストの内、読誦の功徳を強調する『理趣経』を毎日の勤行で唱えるのが習わしである。

普通、経典は呉音で読まれるのが一般的であるが、真言宗では『理趣経』が日本に伝来した時代の中国語の音から漢音で読誦する。
例えば、経題の「大楽金剛不空真実三摩耶経」は「たいらきんこうふこうしんじさんまやけい」と読む。

構成
『理趣経』は、最初の序説と最後の流通(るつう)を除くと、17の章節で構成されている。

大楽の法門 金剛薩埵の章
証悟の法門 大日如来の章
降伏の法門 釈迦牟尼如来の章
観照の法門 観自在菩薩の章
富の法門 虚空蔵菩薩の章
実働の法門 金剛拳菩薩の章
字輪の法門 文珠師利菩薩の章
入大輪の法門 纔発心転法輪菩薩の章
供養の法門 虚空庫菩薩の章
忿怒の法門 摧一切魔菩薩の章
普集の法門 普賢菩薩の章
有情加持の法門 外金剛部の諸天の章
諸母天の法門 七天母の章
三兄弟の法門 三高神の章
四姉妹の法門 四天女の章
各具の法門 四波羅蜜の大曼荼羅の章
深秘の法門 五種秘密三摩地の章
それぞれの章節には内容を端的に表した印契と真言があり、真言僧は必要に応じてこの印明を修する。

十七清浄句

真言密教では、「自性清浄」という思想が根本にある。
これは天台宗の本覚思想と対比、また同一視されるが、そもそも人間は生まれつき汚れた存在ではないというものである。
『理趣経』は、この自性清浄に基づき人間の営みが本来は清浄なものであると述べているののが特徴である。

特に最初の部分である大楽(たいらく)の法門においては、「十七清浄句」といわれる17の句偈が説かれている。

妙適淸淨句是菩薩位
- 男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である
慾箭淸淨句是菩薩位
- 欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である
觸淸淨句是菩薩位
- 男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である
愛縛淸淨句是菩薩位
- 異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である
一切自在主淸淨句是菩薩位
- 男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である
見淸淨句是菩薩位
- 欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である
適悅淸淨句是菩薩位
- 男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である
愛淸淨句是菩薩位
- 男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である
慢淸淨句是菩薩位
- 自慢する心も、清浄なる菩薩の境地である
莊嚴淸淨句是菩薩位
- ものを飾って喜ぶのも、清浄なる菩薩の境地である
意滋澤淸淨句是菩薩位
- 思うにまかせて、心が喜ぶことも、清浄なる菩薩の境地である
光明淸淨句是菩薩位
- 満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である
身樂淸淨句是菩薩位
- 身体の楽も、清浄なる菩薩の境地である
色淸淨句是菩薩位
- 目の当たりにする色も、清浄なる菩薩の境地である
聲淸淨句是菩薩位
- 耳にするもの音も、清浄なる菩薩の境地である
香淸淨句是菩薩位
- この世の香りも、清浄なる菩薩の境地である
味淸淨句是菩薩位
- 口にする味も、清浄なる菩薩の境地である
このように、十七清浄句では男女の性行為や人間の行為を大胆に肯定している。

仏教において顕教では、男女の性行為はどちらかといえば否定される向きがある。
これに対し『理趣経』では上記のように欲望を完全否定していないことから、「セックスを肯定する経典」などと色眼鏡的な見方でこの経典を語られることもある。
真言密教の自性清浄を端的に表した句偈であり、人間の行動や考え、営み自体は本来は不浄なものではないと述べていることがその肝要である。

十七清浄句は欲望の単なる肯定であると誤解されたり、また欲望肯定(或は男女性交)=即身成仏であると誤解されたりする向きも多い。

したがって、『理趣経』は四度加行を実践して前行をしてからでないと伝授してはならないという厳しい規則がある。
また『理趣経』の最後の十七段目は「百字の偈」と呼ばれ、一番中心となっている。
真言僧は大欲(たいよく)を持ち、衆生の為に生死を尽くすまで生きることが大切であると説き、清浄な気持ちで汚泥に染まらず、大欲を持って衆生の利益を願うのが真言僧の務めであると説かれている。

このような思想は両部の大法の一である『大日経』の「受方便学処品」にも見られる。

展開
この十七清浄句が述べられていることによって、古来よりいろいろな解釈や研究が行われ、また事件があった。

特に有名なのは、最澄の借経(経典を借りる)事件である。
日本天台宗の開祖である最澄は、当時はまだ無名で若輩の空海に弟子入りし灌頂を受ける。
天台教学の確立を目指し繁忙だったという理由で自らの弟子をして、空海から借経を幾度となく繰り返していた。
しかし、この『理趣経』の解説本である『理趣釈経』を借りようとして空海から遂に断られた。
これは、修法の会得をしようとせず、経典を写して文字の表面上だけで密教を理解しようとする最澄に対して諌めたもので、空海は密教では経典だけではなく修行法や面授口伝を尊ぶことを理由に借経を断ったという。
空海が断った理由は明らかではないが、一般的にはこの『理趣経』の十七清浄句が、男女の性交そのものが成仏への道であるなど間違った解釈がなされるのを懼れたためといわれている。

空海は、その後東寺を完全に密教寺院として再編成し、真言密教以外の僧侶の出入りを禁じて、自分の選定した弟子にのみ、自ら選んだ経典や原典のみで修行させるという厳しい統制をかけたが、その中にさえ『理趣経』はないといわれる。

また、鎌倉時代には、『理趣経』を根本とした真言密教の一派である立川流 (密教)が発生し、後に淫祠邪教だとして弾圧された歴史もある。
(ただし、立川流を弾圧した側の書物はたくさんあるが、肝心の立川流側の書籍は全く残っていないため、それが本当に邪宗視されるべきもであったかどうかは議論される余地がある。)

[English Translation]