真如三昧耶流 (Shinnyo sanmayaryu)

真如三昧耶流(しんにょさんまやりゅう)は、真言宗醍醐派総本山醍醐寺により顕揚された真言宗の一流派であり、また、真如苑独自の法流でもある。

真如苑宗と称されることもある。

醍醐寺の下伽藍にある法華三昧堂の跡地に真如三昧耶堂が建立された。

特徴

真言各宗派では、それぞれ独自の印相を結ぶ。
通常、印契を結ぶ時、手は衣の下に隠れているため、その印相を目視することは出来ない。
また、目視可能な様に衣の外で結んではいけないとされる。
しかし、真如三昧耶流では、印相は衣の上に表れて結ばれる。

真如苑 - 新宗教か否か

真如苑は、旧来の伝統仏教から正統な派生を遂げ、一宗一派となったものとされる。

真如苑開祖の伊藤真乗は、若き日に当山派修験道の法、最勝恵印三昧耶法(恵印灌頂ともいい、在家の大法とされる)を修め、更に真言宗の金胎両部伝法灌頂(出家の大法)を畢(お)えて阿闍梨となった。
この恵印灌頂を修めるものは数十年に一人出るか否かというほどに行満の道のりは厳しく困難なものであるという。

明治初年の神仏分離令以後相次いだ「門跡還俗令、廃仏毀釈、修験道禁止令等」に加え、醍醐寺の存続すらも危ぶまれるに至った時代、恵印黌(えいんこう 黌学校)、恵印講習会などが一山の僧侶・行者の結束によって開催された。
これにより、長く絶えていた、開山聖宝(醍醐寺根本僧正・理源大師)開壇以来の伝燈「恵印灌頂」が復活(明治43年秋 1910)されたのであったが、それ以降もこの法を修するものは殆ど出なかったとされる。

伊藤真乗(修行時代の僧名「天晴(てんせい)」=上醍醐の行場では『あっぱれさん』とよばれていたらしい)は、醍醐修験部(当山派正統法脈)に伝承の在家法流の行を修めた後(昭和14年秋 1939)、さらに本宗部の大法受法に臨み、醍醐寺伝承の出家法流「三宝院流」を履修し畢えて、昭和18年春(1943)、「伝燈大阿闍梨 金剛院真乗」となった。

この間 醍醐派管長の認可を得て立川不動尊教会の会堂(現在の真如苑総本部 真澄寺)を建立、本山直轄の密院を開創した(昭和14年2月落慶法要 のちに 鐙檠山真澄寺と号 堂宇:現存)。

昭和16年3月末(1941年)には、東京府北多摩郡村山村に唯一残った、醍醐三宝院末の古刹で、廃仏毀釈時代の混乱期に多くの法類寺院が廃絶、廃毀、還俗、転派した中を乗り切った恵印(修験)寺院、「福聚山一住坊常宝院」住持の辞令を受け、醐山管長命による特命住職として晋山。
大正中期以降、住侶に恵まれぬまま荒廃に瀕していた同院の復興に専心した。

真乗僧都は、自坊の立川不動尊教会内に護持会「常宝會」を置き、茅葺屋根の修理、山内の整備など、常宝院主としての寺門運営に携わりながら醍醐寺上山をかさね、本宗部の修学に努めた。

真乗は、復興なった同院堂宇を、恵果(長安 青龍寺 伝燈阿闍梨)― 空海(弘法大師)… ― 聖宝(理源大師)― 観賢(醍醐寺第一世座主)… ― 恵眼(醍醐寺第九六世座主)― 真乗 と継承され来たった伝燈密法・受法の答礼として本山に献納し、特命住職の職を辞した。

その後、宗教団体法の廃止(昭和20年12月 1945)により、それまで統合されていた「合同真言宗」(または 大真言宗)は解体され(昭和21年3月1日付)各派独立。
このとき、伊藤真乗主管の立川不動尊教会・真澄寺は、宗派ならびに本末関係を離脱し、真言宗より独立した。
その後、宗教法人令(昭和20年12月28日施行 1945)による、真澄寺を総本山としての「まこと教団」の設立(伊藤真乗管長 昭和23年 1948)。
さらに、宗教法人法(昭和26年4月3日施行 1951)により、旧宗団組織を改め、在家仏教を基盤とする新たな教団の体制を整え、 密宗「真如苑」(昭和28年5月16日付 文部大臣認証 1953)の発足となった。

なお、かつて伊藤真乗が再興した、一住坊常宝院は、戦時下、先代住職の後継が出征し戦死したため後住なく、戦後まもなく廃寺となり、中世以来 継がれた法灯は青梅市最古の古刹、塩船観音に吸収された(昭和27年 1952)。
本尊・不動明王、経典、什物類は、現在、真言宗醍醐派別格本山塩船観音寺に安置されている。

〔尚、上記 加筆に用いた資料として、研究者には客観性に乏しい教団サイドの出版物は一切無視し、郷土史誌、市・町史、公文書館等史料に基く補筆に努めた。〕

真言の法脈の伝承に関しては、真言宗の系譜(真言八祖から法脈の伝承を明確に記している系図)に真乗と明確に記されている(宗教法人真如苑認証の際に、文部省(現在の文部科学省)の担当官が確認している)という。
この系譜は通常公開されることはない。

昭和51年、真言宗醍醐派総本山醍醐寺では、醍醐山開創一千百年を迎えたが、伊藤真乗は、真言宗醍醐派総本山醍醐寺の命を承けて大導師を勤め、醍醐山開創一千百年真如苑慶讃法要を執行している。
また、昭和59年には、醍醐寺金堂(国宝)においても真如苑教主伊藤真乗大僧正の導師により弘法大師御入定一千百五十年御遠忌法要が執行された。

伊藤真乗は仏師としても著名であるが、創作した仏像は、様々な所に贈られており、秘仏として扱われている。
贈られた先には様々あるが、一例を挙げると、曹洞宗大本山永平寺、天台宗東北大本山中尊寺、醍醐寺准胝観音堂、タイ国パクナム寺院、コペンハーゲン大学、ウプサラ大学、オスロ大学、バチカンのヨハネ・パウロ6世、ヘブライ大学、武田信玄公菩提寺の恵林寺など、宗派を超えて金色の仏像が送られている。

真如苑には、日本の伝統仏教である様々な宗派が訪れることがある。
一例として、浄土宗青年部が研修に訪れている。

なお、真如苑では、昭和初期の時代に興った宗教であり、仏教界で唯一、大般涅槃経を所依として在家仏教教団を開設したことなどから、教団では新宗教であることを公式に肯定して憚らない。
しかし一方では上記のように伝統の法脈を承け継いでいることもまた事実であり、開祖夫妻はお互いの家系から受け継いだ宗教的背景から自然発生的に興った宗教であり、突然神がかり状態になって興った宗教ではないことなどから、それらの面では単なる新宗教、あるいは新興宗教ではないと、きっぱり否定している。

また、キリスト教やイスラム教、そして仏教問わず、いかなる宗教でも、始まった当初は周囲の偏見や既存の他宗教などから異端視され、多少なりとも迫害された歴史が物語ることや、そこに事実・無実問わず噂話や情報が混入されていく傾向はどの宗教にもあることである。

したがって、これらの実績を踏まえて考察するとき、真如苑を、侮蔑的な意味での新興宗教と称することが適切であるか否かは、今、一歩、慎重に検証、考察することが必要とされる。
戦後60年、二世代を経た今、旧仏教、新宗教の二元的括り(くくり)からの視点ではなく、なおも様々な模索をかさねながらも、新時代に即応する「仏教」の一方向、可能性を、この宗団は指し示しているように惟われる。

[English Translation]