福知山城 (Fukuchiyama-jo Castle)

福知山城(ふくちやまじょう)は、京都府福知山市にある平山城。

概要

江戸時代には福知山藩の居城であった。

もとは小笠原長清の末裔とされる塩見頼勝が、室町時代後期に同地に築城した横山城という掻上城であった。
1579年(天正7年)に明智光秀は丹波国を平定すると、これを福智山城と改名、近世城郭へと大修築したものである(城代は藤木権兵衛・明智秀満)。
尚、江戸時代の城主、朽木氏により「福知山」に改められた。

現在は、福知山城公園として整備され、天守は1985年(昭和60年)に復元されたもので、福知山市郷土資料館の施設となっている。
ほか、公園入口には隅櫓風城郭建築様式の福知山市佐藤太清記念美術館がある。

市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵地にあり、その地形の姿から臥龍城の別名を持つ。
天守は国道9号走行中やJR福知山線の列車内からうかがえ、夜間はライトアップもされ、シンボリックである。
また多数の桜が城周辺に植林されており、春には桜が満開となる。

特徴
曲輪は、福知山盆地に突き出た丘陵地の先端から、本丸、二ノ丸、伯耆丸、内記丸と続く連郭式である。
本丸と二ノ丸にはそれぞれ御殿があったが、城の中央に位置し規模の大きい二ノ丸御殿が中心施設であったと思われる。
また、その両側面の平地に設けた堀の内には、大手門のある北側に対面所や武家屋敷を、南側には蔵、馬屋、鷹部屋、庭園を配していた。
更に内記丸に続く郭外の台地には、平侍の長屋等があった。
現在、本丸以外の曲輪は残っておらず、廃城後の「切り通し」や鉄道敷設によって、これらのあった丘陵地形は分断されてしまっている。
尚、現在の復元天守へ登るための通路は、本丸に移された朝暉神社への参道として後に作られたものあり、本来の城道は現在住宅地として利用されている二の丸側から通じていた。

石垣は穴太衆による野面積みである(福知山市指定文化財)。
石材に墓石や石仏が使用されるのは、織田信長やその家臣ゆかりの城には多々見られることであるが、その使用数の夥しさとしては、郡山城跡に並び珍しい例である。
これはただ単に石材や、時間が不足していたためだとか、権力の強さをほかの国々に誇示するため、等さまざまな説があり、正しいことはまだはっきりしていない。

本丸の井戸「豊磐井」(とよのいわい)は、城郭内の井戸として日本一の深さ(50m、海面下に達する)を誇る。

復元天守は、大天守(3層4階)、続櫓、小天守が連結された形で、近世初期の望楼型である。
外観は忠実に再現されているが、構造は鉄筋コンクリート造である。

遺構

本丸を残して二の丸以下の郭は開発により失われたが、本丸には石垣および井戸が残る。

建造物としては、二の丸から本丸に移築された銅門脇番所(多聞櫓)が現存する。
また、観瀧寺、正眼寺、法鷲寺、明覚寺、および瑞林寺の山門として、それぞれ城門が移築され現存する。

福知山城と福知山音頭
福知山音頭は江戸時代に出来上がった盆踊りの曲で、「ドッコイセ~、ドッコイセ~」という特徴的なフレーズがある。
これは、福知山城の築城中に石垣を運ぶ際、このような掛け声をかけて運んでいたことに由来すると言われている。

交通アクセス

JR福知山線・山陰本線・北近畿タンゴ鉄道 福知山駅 徒歩15分

周辺情報

明智藪 由良川の流れを曲げ、度重なる氾濫防止と水運交易発展のために築いた堤防。

御霊神社 光秀を合祀する神社。
「明智光秀家中軍法」等、直筆の書状を所蔵する。

佐藤太清記念美術館(福知山市立美術館) 城址公園内にあり、意匠を城にあわせている。

松村家住宅(京都府指定文化財)
丹波生活衣館
福知山市役所
福知山市武道館

[English Translation]