ジャポニズム (Japonism)

ジャポニズム(英語:Japonism)、あるいはジャポニスム(フランス語:Japonisme)とは、ヨーロッパで見られた日本趣味・日本心酔のこと。
本来「ジャポニスム」と呼ぶのが一般的だが、ここでは便宜上「ジャポニズム」に表記を統一する。

ジャポニズムは単なる一時的な流行ではなく、当時の全ての先進国で30年以上も続いた運動である。
欧米ではルネサンスに匹敵する、西洋近代的な美意識と科学的パースペクティヴの、大きな変革運動の一つの段階として見られている。
特に19世紀中頃の万国博覧会(国際博覧会)へ出品などをきっかけに、日本美術(浮世絵、琳派、工芸品など)が注目され、印象派やアール・ヌーヴォーの作家たちに影響を与えた。

概要

ジャポニズムは画家を初めとして、作家・詩人たちにも大きな影響を与えた。
たとえばフィンセント・ファン・ゴッホによる歌川広重の『名所江戸百景』の模写やクロード・モネの着物を着た少女が非常に有名である。
エドガー・ドガを初めとした画家の色彩感覚、人物や風景の構図にも影響を与えている。
和歌なども翻訳され、例えば扇子に記したマラルメの4行詩はその影響とされる。

ジャポニズムはオリエンタリズムから生じた結果ではあるが、たんなる一時的な流行に終わらなかった。
14世紀以降、西欧では何度か大きな文化的な変革が起きた。
西洋近代を告げるルネサンスにおいては自然回帰運動が起き、芸術の世界では具象をありのままに捉えようとする近代的パースペクティヴが発展し、写実性を求める動きが次第に強まった。
その結果、19世紀中頃にクールベらによって名実ともに写実主義が定着した。
19世紀後半からは写実主義が衰え、印象主義を経て抽象画などのモダニズムに至る変革が起きた。
この変革の最初の段階で決定的に作用を及ぼしたのがジャポニズムであったと考えられている。
ジャポニズムは単なる流行にとどまらず、それ以降1世紀近く続いた世界的な芸術運動の発端となったのである。

昨今では日本の漫画・アニメーションなどがフランスなどで高い人気を博しており、「現代のジャポニスム」といわれている。
なお、ルイ・ヴィトンのダミエキャンバスやモノグラム・キャンバスも当時のゴシック趣味、アールヌーヴォーの影響のほか、市松模様や家紋の影響もかかわっているとされる。

歴史

ジャポネズリーの時代
ジャポネズリーとは、異国趣味としての日本趣味のことである。
オリエントや中国などの物産と同様に、当初は日本の工芸品も見た目の物珍しさで評価されていた。
ジャポネズリーはジャポニズムの一部、あるいは前段階として解釈されている。

嘉永年間、黒船来航により開国した日本に、西洋からの商船が押し寄せた。
当時発達しつつあった写真技術と印刷技術により、日本の様子が西洋に広く知られるようになった。
他の美術工芸品とともに浮世絵という版画がヨーロッパとアメリカでまたたく間に人気を博するようになった。

ジャポニズムの第一段階は日本の美術品、特に浮世絵版画の熱狂的な収集から始まる。
その最初の例はフランスのパリであった。
1856年頃、フランスのエッチング画家フェリックス・ブラックモンが、摺師の仕事場で『北斎漫画』を目にした。
それらは磁器の輸送の際に詰め物に使われていたものだったという。

1860年から1861年にかけて出版された日本についての本の中では、浮世絵がモノクロで紹介されている。

シャルル・ボードレールは、1861年に手紙を書いている。
「かなり前になりますが、私は1箱の日本の工芸品を受け取り、それらを友人たちと分け合いました……」。
その翌年にはラ・ポルト・シノワーズ(「中国の門」、La Porte Chinoise)という浮世絵を含むいろいろな日本製品を売る店がリヴォリ通りというパリで最もおしゃれな商店街に開店した。

1871年には、カミーユ・サン=サーンスが作曲し、ルイ・ガレが台本を書いたオペラ『ラ・プランセス・ジョーヌ』(『黄色人の王女』、La Princesse jaune)が公開された。
その物語はオランダ人の少女が芸術家のボーイフレンドが熱中している浮世絵に嫉妬するというものだった。

ブラックモンによる浮世絵の古典的名作の最初の発見にもかかわらず、当初ヨーロッパに輸入された大半の浮世絵は、同時代である1860~1870年代の絵師によるものだった。
それ以前の巨匠たちが紹介され、評価されるのはもう少しあとのことになる。
また、同時期のアメリカのインテリたちは、江戸の版画などは低俗で一時の流行に過ぎない。
雪舟や周文などのような日本の洗練された宗教的、国家的遺産とは区別されるべきものだと主張した。

1870年代と1880年代、多くのフランスのコレクターや作家、芸術評論家が日本に渡った。
その結果、ヨーロッパ、特にフランスにおいて日本の美学に関する出版物と工芸品がさらに広く知られるようになった。
中でも、自由主義経済学者アンリ・チェルヌースキ、批評家テオドール・デュレ、数年間江戸に住んで医学を教授した英国のコレクターのウィリアム・アンダーソンがその代表者である。
現在でも、アンダーソンのコレクションは大英博物館で見ることができる。
ジャポニズムの広がりに伴って、林忠正のような日本人美術商もパリで開業し始めた。
1878年のパリ万博では、数多くの日本の工芸品が展示され人気を博した。

ジャポネズリーからジャポニズムへ

右のマネの絵はジャポネズリーの代表的なものであると考えられる。
人物の後ろに浮世絵などの日本の絵画がちりばめられている。
この作品そのものには日本の絵画の表現方法が顕著に取込まれているわけではないが、マネ自身の日本趣味を表している。
この項の冒頭にあるフィンセント・ファン・ゴッホの絵も同様の感覚によるものであるとも考えられる。
このように日本の芸術の評価は異国趣味の一つに過ぎなかった。
しかし浮世絵などで使われていた日本独特の空間表現や色彩感覚が、次第にヨーロッパの芸術家に取り入れられ「~イスム」となっていく。

葛飾北斎や喜多川歌麿を含む日本の画家の作品は絶大な影響をヨーロッパに与えた。
日本では文明開化が起こり、浮世絵などの出版物が急速に衰えていく一方で、日本美術はヨーロッパで絶大な評価を受けていた。
日本美術から影響を受けたアーティストにはピエール・ボナール、エドゥアール・マネ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、メアリー・カサット、エドガー・ドガ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、ジェームズ・マクニール・ホイッスラー、クロード・モネ、フィンセント・ファン・ゴッホ、カミーユ・ピサロ、ポール・ゴーギャン、グスタフ・クリムトなど数え上げたらきりがない。

ありとあらゆる分野が日本の影響を受けたが、版画の技術だけは驚くほど影響を受けなかった。
それは、ヨーロッパで主流だったのはリトグラフであって、木版画ではなかったからである。
日本の影響を抜きにして、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックのリトグラフやポスターについて語ることなど考えられない。
木版画によるジャポニズムの作品が作られるようになるのは、モノクロではあったものの、ポール・ゴーギャンとフェリックス・ヴァロットンが最初となる。

イギリスへの日本美術の伝達にはジェームズ・マクニール・ホイッスラーが重要な役割を果たした。
当時パリは日本の物産の集散地として知られており、ホイッスラーは滞在中に優れたコレクションを蓄積した。

フィンセント・ファン・ゴッホのいくつかの作品は浮世絵のスタイルを模倣したり、それ自体をモチーフにしたりしている。
たとえばタンギー爺さん(あるアートショップのオーナー)の肖像画には、背景に6つの浮世絵が描かれている。
また彼は、1886年、渓斎英泉の浮世絵をパリの雑誌『パリ・イリュストレ』(Paris Illustré)で見つけた後、1887年に《娼婦》を描いている。
ゴッホはこの時すでにアントウェルペンで浮世絵版画を収集していた。

音楽に関しては、ジャコモ・プッチーニの有名な『蝶々夫人』がジャポニズムの影響を受けている。
また、ウィリアム・ギルバート (劇作家)とアーサー・サリヴァンによる有名なオペレッタ『ミカド (オペレッタ)』は、ロンドンのナイツブリッジで行われた日本の展示会から着想を得たものである。

これらのアーティストは、多くの日本美術の特徴を取り入れた。
ジャポニズムの流行った当時、欧米のアーティストは日本美術の不規則性と非対称性に大変関心を寄せた。
西洋のものとは異なる遠近法が用いられており、中心が中央から外れて構成されている。
また写実的陰影法も無く、鮮やかな色彩で平面構成がなされている。
これらの要素は19世紀までの画家にとって前提であったローマン・グレコ様式(Roman-Greco art)の正反対、まさに対極にあるものであった。
西洋の画家たちが近代的な表現技法に行き詰まりを感じているなか、日本のアートは彼らの心理を、伝統に束縛された慣習から解き放ったひとつの契機となったのである。

浮世絵は線で構成されており、何も無い空間と図柄のある部分にくっきりと分かれ、立体感がほとんど無い。
これらの特徴はアール・ヌーボーに影響を与えた。
浮世絵の直線と曲線による表現方法は、その後、世界中の全ての分野の絵画、グラフィックで当たり前のように見ることができるようになった。
これらの浮世絵から取り入れられた形状と色彩構成は、現代アートにおける抽象表現の成立要素のひとつと考えられる。
ジャポニズムによって、その後の家具や衣料から宝石に到るまであらゆる工芸品のグラフィックデザインに、日本的な要素が取り入れられるようになった。

ジャポニズムの影響

左上の絵は19世紀中頃の写実主義のフランスの画家、アンリ・ファンタン=ラトゥールの『テーブルの隅』という絵である。
左下は世紀末のフランス画家、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックのポスター画である。
ロートレックはジャポニズムの影響を強く受けた画家の一人である。
このロートレックのポスターは現代人の目には特別なものには映らないが、
当時の西洋人にとってはかなり斬新な表現方法を使った絵であった。

まず、ロートレックの絵にはテーブルのラインが画面を真っ二つに切るように斜めに入っている。
ジャポニズム以前の絵画では、このように大胆に斜めのラインが入ることは珍しい。
ファンタン=ラトゥールの絵のように水平に入るのが普通であった。
これは右の広重の浮世絵に見られるような構図がインスピレーションになっていると考えられている。

また、ファンタン=ラトゥールの絵では遠近法と陰影、細部の描写により立体感を表現している。
ロートレックの方は平面の組み合わせで描写され、立体感の表現は全く放棄されている。
人物や物体の輪郭が線で表現されるのも、ジャポニズム以前のヨーロッパではあまり見られない表現方法であった。
色使いも大胆で鮮明な原色が画面のかなりの面積を占めている。
油彩とリトグラフという比較障害があるとしても、ファンタン=ラトゥールの絵とは好対照である。

左の絵では比較しにくいが、ジャポニズム以前の絵画では、地平線の位置が画面中央付近から下部に水平に表現されるのが普通であった。
ジャポニズム以降は地平線が画面上部に描かれたり、あるいは背景全部が地面または床になることが普通に見られるようになる。
このようなジャポニズムの影響は、20世紀に入るとヨーロッパのあらゆる視覚表現に普遍的に見られるようになる。
これはジャポニズムでこちらはそうではない、と区別することが意味を成さなくなっていく。

[English Translation]