マキノ・プロダクション (Makino Production)

マキノ・プロダクション(1925年6月 設立 - 1931年5月 改組 / 10月 新社解散)は、かつて京都に存在した映画会社である。
サイレント映画の時代に牧野省三が設立した。
直木三十五、衣笠貞之助、伊藤大輔 (映画監督)、そして阪東妻三郎や勝見庸太郎など外部の独立プロダクションの若手とも提携し、数々の傑作を生み出した。
最末期にはトーキーの研究にとりくんで先駆的トーキー作品を発表、これが牧野没後のマキノトーキー製作所へとバトンをつないでいく。

前史

1924年(大正13年)7月、「等持院撮影所」を持つ牧野省三のマキノ映画製作所は東亜キネマに吸収合併され、牧野は東亜キネマの「甲陽撮影所」と「等持院撮影所」所長に就任した。
その半年後の1925年(大正14年)1月、東亜キネマで東亜派と旧マキノ派(出身者)の対立を収めるため、「東亜キネマ等持院撮影所」の名称を「東亜マキノ等持院撮影所」と改称された。
同時に、所長代理に「東亜キネマ甲陽撮影所」の監督で当時31歳の山根幹人が就任した。
山根は東京の映画プロデューサー高松豊次郎の娘・雪の夫であり、高松の「活動写真資料研究会」の映画監督、同研究会の吾嬬撮影所長だった人物である。
また、牧野は、小説家の直木三十五が奈良県に設立した「連合映画芸術家協会」に協力、「東亜マキノ等持院撮影所」で同協会の第1作『月形半平太』を撮影した。

同年3月、「東亜マキノ等持院撮影所」が失火により焼失する。
これによって大損失を受ける。

独立プロダクションとの提携

同年6月、牧野省三は東亜キネマを退社した。
当時46歳の牧野が京都の御室天授ヶ丘に設立したのが、この「マキノ・プロダクション」である。
牧野が建てた「マキノ・プロダクション御室撮影所」を開所し、「等持院撮影所」は東亜キネマに明け渡した。
「東亜マキノ等持院撮影所」の旧マキノ派従業員は、その多くが同社の設立に参加した。
マキノ派が去った後、等持院撮影所長には東亜の親会社・八千代生命の宣伝部長である小笹正人が就任した。
等持院撮影所長代理の山根もマキノに合流した。
東京ではこの動きに呼応して、高松が「タカマツ・アズマプロダクション」を設立、吾嬬撮影所を再稼働、これを「マキノ・プロダクション東京撮影所」とし、「マキノ東京派」を構成した。

またマキノ・プロダクションは、同時期に独立した阪東妻三郎が立花良介のスポンサードにより設立した「阪東妻三郎プロダクション」(阪妻プロ)と提携した。
同社の阪妻プロの製作第1作・配給第2作『雄呂血』を牧野が製作総指揮を執り、配給第1作『異人娘と武士』の製作を吾嬬撮影所(マキノ東京派)で行ない、マキノ・プロダクションが配給した。

1926年(大正15年)1月、3年前のマキノ映画製作所ボイコットと同様の独立プロダクション排斥運動をメジャー4社が行なうが、マキノはこれを打破した。
旧劇(時代劇)、新劇(現代劇)ともに増強、時代劇には欠かせなかった「立ち回り」を排除した作品も製作、新しい映画づくりに挑戦した。
同年に松竹蒲田撮影所を退社した勝見庸太郎が設立した「勝見庸太郎プロダクション」と、提携製作を開始する。

1927年(昭和2年)1月、牧野は超大作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』の製作を開始。
同年5月、名古屋市に「マキノ・プロダクション中部撮影所」(現在の名古屋市南区 (名古屋市)道徳新町)を開所、牧野の長男で映画監督のマキノ雅弘が、弱冠18歳で同撮影所長に就任した。
牧野は同撮影所に『忠魂義烈 実録忠臣蔵』の「松の廊下」のセットを建て、撮影にとりかかる。

1928年(昭和3年)3月、『忠魂義烈 実録忠臣蔵』のフィルムが同作の編集中に失火、牧野の本宅と大量のネガ・フィルムが焼失する。
失意のどん底に墜ちた牧野はしかし、同年11月、ハリウッドで世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』(1927年)の全米公開からわずか1年ではやくもトーキーの研究を始める。
翌1929年(昭和4年)7月5日、先駆的な国産ディスク式トーキーである『戻橋』(監督マキノ正博)が公開される。
そのわずか2週間後の同年7月25日、牧野省三が50歳で死去、「御室撮影所」で盛大な社葬が行われた。

牧野省三の没後

同年9月、牧野没後50日を迎え、「マキノ・プロダクション」の新体制を発表した。

同年3月に東亜キネマを退社した元等持院撮影所長の小笹を撮影所長に迎え、当時21歳のマキノ正博が撮影部長に、19歳のマキノ満男が総務部長にそれぞれ就任した。

同年末には、アメリカから、牧野省三が「ミカド商会」を興したのと同じ1919年(大正8年)にユナイテッド・アーティスツ社を設立した俳優のダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォードの夫妻が同社の「御室撮影所」を訪問した。

ストライキ、そして終焉

1930年(昭和5年)12月、賃金未払いが発生、従業員はストライキを起こした。
長男のマキノ正博は従業員側につき、争議委員長としてマキノ本家(同社代表取締役の母・牧野知世子、弟・マキノ満男)との交渉の先頭に立った。
このとき争議委員長は代表取締役に殴られるが、マキノ関東の坂間好之助の仲裁で製作再開のめどが立つ。

翌1931年(昭和6年)1月、同社の製作権・配給権を従業員側に譲渡、製作再開する。
1月は6本、2月は旧作の再編集作品『マキノ大行進』を含めた6本、3月は10本を製作・配給したが、ふたたび賃金未払いが起こり、争議は悪化する。
4月には4本を製作するに留まる。
同年4月24日に公開した金森万象監督の『京小唄柳さくら』が、同社の最終作品となった。

同年5月、「新マキノ映画株式会社」を設立するが、御室撮影所の製作業務は再開されず、俳優の退社がつづく。
同年8月、マキノ智子・沢村国太郎夫妻、監督の滝沢英輔(瀧澤憲)らが退社、東活映画社へ移籍する。
同年10月、「新マキノ映画株式会社」は解散、高村正次が直木三十五の協力を得て「大衆文芸映画社」を設立する。
翌1932年(昭和7年)御室撮影所焼失。

当時23歳のマキノ正博が、マキノ・プロダクションおよび牧野省三の遺した「37万円」という巨額の負債をひとりで背負うこととなった。

[English Translation]