勧進能 (Kanjin-Noh (Noh performances held to raise subscriptions for the construction of shrines or temples))

勧進能(かんじんのう)は、社寺の建立、改築などの際に寄付を募るために、入場料を取って公開された能である。
後には本来の目的が薄れ、能役者の収益のため行われるようになった。

概要
勧進のための能は、古くは猿楽の初期から行われた。
少なくとも南北朝時代 (日本)の14世紀の半ばには、既に盛んに行われていたことが分かっている。
多くの観衆を集める都合上、初期は京都を中心に開催され、賀茂川の河原や大寺院の境内などが会場となった。
当初は田楽のものが盛んで、『太平記』にも田楽の勧進能が盛況を示した様子が記されている。

時代が下ると大和猿楽諸座がその中心となり、有名なのは寛正5年(1464年)4月、京都糺河原における鞍馬寺の再興のための僧善盛の勧進、音阿弥・観世政盛父子の演能である。
他にもこの時代では、永正2年(1505年)粟田口での金春禅鳳、享禄3年(1530年)五条玉造での観世宗節によるものなどが知られている。

江戸時代になって、おおむね四座一流の太夫の営利的な興業と化した。
中でも観世大夫は、江戸幕府によって太夫一代一度限り許される勧進能を行う特権を持ち、これを「一世一代能」、「一代能」、「御免能」と称した。
これは数日間に渡る興行で、江戸町民は強制的にこの入場券を割り当てられたため、かなりの収益をもたらした。
なお、幕末には宝生座もこれを行っている。
有名なものとしては、観世元章が将軍の後援を得、寛延3年(1750年)に江戸筋違橋で15日間に渡って行った勧進能がある。
これほどのロングラン公演は前例のないことであった。
これは一代能を行わなかった祖父の分、父の分を加算するとして許されたものであり、元章の権勢を示すものとなった。

江戸における大勧進能を挙げれば、次の通り。

慶長12年(1607年) 江戸城内 観世、金春流
元和 (日本)7年(1624年) 幸橋外 観世
明暦2年(1656年) 筋違橋外 観世
貞享4年(1687年) 本所 宝生
寛延3年(1750年) 筋違橋外 観世
文化 (元号)13年(1816年) 幸橋外 観世
天保2年(1831年) 幸橋外 観世
弘化5年(1848年) 筋違橋外 宝生

[English Translation]