安宅 (Ataka)

安宅(あたか)は『義経記』などに取材した能楽作品。
成立は室町時代。
作者不詳。
一説に観世小次郎信光作者説がある。
が、記録に残る最古の上演記録は寛正6年(1465年)で、信光の生年が1450年という最近の研究成果によると15歳の作ということになり不自然。
源義経主従が奥州に落ちる途中、安宅の関で関守にとめられ、弁慶がいつわりの勧進帳(寺院などの建立にあたって寄進を集めるための公認の趣意書)を読んでその場を逃れた逸話を描く。
後世、浄瑠璃、歌舞伎などに展開してゆく義経物(判官物とも)の代表的作品。

作品構成
義経主従が山伏に変装して奥州に下向する逸話は『吾妻鏡』、『源平盛衰記』、『義経記』などに拠っている。
が、安宅の関での勧進帳の読み上げはこの作品ではじめてみられ、作者の創作と思われる。
弁慶と富樫のやりとりの緊張感、勧進帳の読み上げの見事さ、一旦逃れられると思わせて足弱の山伏(実は義経)が見とがめられ、弁慶が思い切り主を杖で打つ場面、最期の酒宴の場の弁慶の舞など、見所が多い。
中入りなしの一段ものだが、「安宅までの道行」「勧進帳読み上げ」「義経打擲(ちょうちゃく)」「難を逃れた主従の対話」「富樫が追ってきて酒宴になる」の五場にわけられよう。
ここではこれにしたがってあらすじを解説する。
なおこの能は、狂言方も終始劇の進行に参加する「能狂言方」である。

≪注記≫以下斜体で示した文は謡曲本文からの引用である

【登場人物】

能シテ 武蔵坊弁慶
能ワキ 安宅の関の関守 富樫の何某(なにがし)
子方 源義経
オモアイ 義経一行の供をする強力(ごうりき)
アドアイ 富樫の家来の太刀持ち
ツレ(同山)(9人) 義経の家来たち

安宅までの道行

加賀の国安宅の関をあずかっている富樫何某が登場。
義経一行が山伏姿で逃亡しているので、もし山伏が通ったら報告せよといいおいて、ワキ座に控える。

一方、義経と弁慶、その他義経の家来、強力の総勢十二人が、山伏姿で橋懸(はしがかり)から登場。
「旅の衣はすずかけの」という有名な謡を謡う。
二月十日に都をでて、逢坂関から近江にぬけ、琵琶湖を船で海津までわたり、有乳山をこえて気比の海(今の福井県敦賀市)にたどりつき、越前国をとおって、花の季節に加賀国安宅についたという謡である。

その地で、ここに新しい関所ができ、山伏を詮議しているという情報を聞き、どうして通ろうかという相談になる。
打ち破って通ろうという強硬な意見に、弁慶は「この関を打ち破るのは簡単だが、のちの行程を考えて今は事をおこさないのが上策」と進言する。
義経は弁慶にまかせたと言う。
そこで弁慶は義経に「強力の荷物を背負い、いちばん後ろからくたびれた様子でついてきてください」と言い、そして本物の強力に対して様子を探ってこいと命じる。
もどってきた強力は「ものものしく関を固めています」と報告する。
一行は荷物を背負って足痛げな義経を最後尾に、安宅の関にむかう。

勧進帳読み上げ

関にさしかかると富樫が尋問をはじめる。
弁慶は「われらは奈良東大寺の再建のために北陸道につかわされた僧である」と答える。
そしてこの関で山伏に限って止めるのは、どういう次第かと問う。
富樫はこう答える。
「源頼朝と不仲になられた義経が奥州の藤原秀衡をたよって山伏の姿で下向している。」
「それを阻むためだ。」
富樫の家来の太刀持ちが、こう言う。
「昨日も山伏を三人斬った。」
弁慶は、以下のように言ってから、山伏の由来を語りはじめる。
「斬られるならば最期のつとめをしよう。」
供の山伏もそれに唱和する。
さいごに、こうおどしをかける。
「山伏を討てば熊野権現の仏罰があたる。」
富樫は、こう言う。
「まことの山伏ならば『勧進帳』をもっているであろう。」
「それを読み聞かせてくれ。」

弁慶は「もとより勧進帳あらばこそ (もともと勧進帳などあるはずもない)」と独白。
しかし持っていた巻物を出し勧進帳と称して高らかに読みはじめる。
その内容は以下の通り。
「聖武天皇最愛の夫人が建立せられた盧遮那仏の霊場(東大寺のこと)が絶えようとしていることを惜しみ、俊乗坊重源が諸国を勧進(寄付をつのること)してまわっている。」
「もし一紙半銭なりと奉れば、この世では無比の楽を得、来世では数千の蓮の上に座すことになる。」
その読み上げがいかにも見事であるので、関の人々はおどろきおそれて一行を通そうとした。

義経打擲

最後に義経が通ろうとすると、富樫はこう命ずる。
「そこのもの とまれ。」
山伏一行はこの君をあやしまれては一大事と色めき立つが、弁慶は一同をとどめてたずねる。
「どうしてこの強力をとめるのか。」
富樫はこう答える。
「その強力が判官殿に似ているという者がいるのだ。」
それを聞いて弁慶は義経に向かい、以下のように言って杖で義経を打つ。
「今日のうちに能登の国まで行こうとしているのに。」
「お前がよろよろと歩いているばかりに、人に怪しまれてしまうのだ。」
「金剛杖でさんざんに打ち据える。」

富樫が止めようとすると弁慶は悪態をつく。
「荷物をもっているものに目をつけるとは、盗人か。」
供の者たちも、以下のように言って立ち向かう勢いである。
「強力に刀を抜くとは臆病者。」
その迫力におそれをなし富樫はこう言って関を通してしまう。
「誤りであった、どうぞお通りください。」

難を逃れた主従の対話

関から離れたところで、弁慶は義経に床几をすすめ、わびる。
「さきほどは難儀のあまり思わぬことをしてしまいました。」
「御運がつきて弁慶の杖にもあたられたこと、まことに情けない思いです。」
すると義経は、こう答える。
「それは心得ちがいだ。」
「弁慶のとっさの機転は天の加護だ。」
「さきほどの散々の打擲は弁慶ひとりのはかりごとではない。」
「八幡大菩薩の御宣託である。」
弁慶はそれに感激しながらも、こう言う。
「いかに末世といえども主君を打つとは。」
「天罰がくだりましょう。」

義経は「今日の難をのがれたのも不思議なこと」と謡いはじめ、家来一同は涙をながす。
義経はさらに以下のように述べる。
「弓馬の家に生まれて頼朝の命にしたがい、平家を追って西海に戦い、山野に野営し、敵をほろぼしたのに。」
「その忠義もいたずらになってしまった。」
「思うことがかなわないのが憂き世だとは知るものの、まっすぐな人は苦しんで、讒言をするものは勢いを得る。」
「神も仏もないものだろうか」
(舞台上では地謡と子方が謡う)

富樫が追ってきて酒宴になる

場面はもどって安宅の関。
橋懸で富樫が太刀持ちを呼び、さっきの山伏に酒を贈りたいので、さきにいってそのことを告げてこいと命じる。
太刀持ちは急いで追いつき、その場の強力に、こう言う。
「さきほどの失礼のおわびに酒をもってきた。」
「じきに富樫さまがみえるのでそう伝えてくれ。」
強力が弁慶にそのことを告げると、以下のように言う。
「驚いたことだ。」
「しかしお目にかかろう。」
そしてやがてやってきた富樫を迎える。

弁慶は、こうさとる。
「酒をのませて人を油断させようという腹だな。」
怪しまれないように気をつけよと一同に注意をうながす。
そして酒に酔った体で「面白や山水に盃をうかめては」と謡いはじめる。
弁慶はもともと延暦寺では延年の芸能僧であった。
そこで「鳴るは滝の水」という延年の一節を口ずさみ、富樫に酌をする。
富樫はこれを受け、その延年の舞をみせてほしいと言う。
そこで弁慶の舞(通常では男舞)になる。
「鳴るは滝の水 日は照るとも絶えずとうたり」という今様からの、以下のような謡である。
「とくとく立てや (中略) 心許すな関守の人々。」
「いとま申してさらばよとて (中略) 虎の尾を踏み毒蛇の口を逃れたる心地して、陸奥の国へぞ下りける」
(はやく立ちなさい。
関守に心ゆるしてはいかん。
おいとまします。
さようなら。
あぶないところをやっとのがれた心地だと、陸奥の国へと向かった)」
そして一同、陸奥の国へむけて逃れ行く。

後世への展開

能の『安宅』は後世、さまざまな演劇作品、講談などに展開していった。

歌舞伎『勧進帳』 天保11年(1840年)初演 歌舞伎十八番のひとつ
人形浄瑠璃『勧進帳』 歌舞伎作品をもとに明治28年(1895年)初演
講談『安宅の勧進帳』
映画『虎の尾を踏む男達』
素人歌舞伎『義太夫勧進帳』 小松市の素人歌舞伎用の新作。

『勧進帳』との違い、及びその背景

この話の内容は、能の『安宅』としてより、歌舞伎や人形浄瑠璃(文楽)の『勧進帳』として有名。
だが、両者の間には大きな違いがある。
『勧進帳』の項目にも書かれているとおり、『勧進帳』では富樫が話の一方の主役となるのに対し、『安宅』では基本的に弁慶一人が主人公である。
これは時代背景に因っている。
江戸時代では関所破りは重罪で関守(この場合富樫)にも重い罪科が科せられた。
それに対し、『安宅』が成立したと考えられる室町時代や作中の時代である鎌倉時代ではそれほど重い罪ではなく、また幕府による御家人の統制もそれほど厳しくはなかった。
また江戸時代において能は式楽として改変があまり行われなかった。
そのため、『勧進帳』の「弁慶の主人を思う心に打たれ、自らが罪に問われる可能性を省みず義経一行を通した、情の厚い人物」という富樫像は『安宅』に付加されなかったのである。

[English Translation]