当道座 (Todoza (the traditional guild for the blind))

当道座(とうどうざ)とは、中世から近世にかけて存在した男性盲人の自治的互助組織。

仁明天皇の子である人康親王は盲目(眼疾による中途失明)であった。
山科に隠遁して盲人を集め、琵琶、管弦、詩歌を教えた。
人康親王の死後、そばに仕えていた者に検校と勾当の官位を与えたとする故事により、当道座の最高の官位は検校とされた。

鎌倉時代、『平家物語』が流行し、多くの場合、盲人がそれを演奏した。
その演奏者である平家座頭は、源氏の長者である村上源氏中院流の庇護、管理に入っていく。
室町時代に検校明石覚一が『平家物語』のスタンダードとなる覚一本をまとめ、また足利一門であったことから室町幕府から庇護を受け、当道座を開いた。
久我家が本所となった。

その後、江戸時代には、江戸幕府から公認され、寺社奉行の管理下におかれた。

その本部は「職屋敷(邸)」と呼ばれ、京都仏光寺近くにあった。
長として惣検校が選出され、当道を統括した。
一時は江戸にも関東惣検校が置かれ、その本部は「惣禄屋敷」と呼ばれ、関八州を統括した。
座中の官位(盲官と呼ばれる)は、最高位の検校から順に、別当、勾当、座頭と呼ばれていたが、それぞれは更に細分化されており合計73個の位があった。
当道座に入座し三絃、鍼灸等業績を挙げれば、それらの位は順次与えられた。
昇格には非常に長い年月を要し、実際にはそのままで検校まで進むことは容易ではなかったため、幕府は当道座がこれらの盲官位を金銀で売ることを公認した。
最下位から検校まで73の階級を順次すべて金銀で購入するには総額719両を要したという。

官位であるために、検校ともなれば社会的地位はかなり高く、征夷大将軍への拝謁も許された。
さらに、最高位の長である惣検校となると大名と同様の権威と格式を持っていた。

江戸時代においては、当道座は内部に対しては、盲人の職業訓練など互助的な性質を持っていたが、一方では、座法による独自の裁判権を持ち、盲人社会の秩序維持と支配を確立していた。
位の上下による序列は非常に厳しかったと伝えられる。
外部に対しては、平曲(平家琵琶)及び三曲(箏、地歌三味線、胡弓)、あるいは鍼灸、按摩などの職種を独占していた。
これは、江戸幕府の盲人に対する福祉制度としてとらえられていた。
特に平曲は鎌倉時代以来、当道座の表芸であったが、江戸時代には次第に沈静化し、代わって地歌、箏曲を専門とする者が一般化した。

このような音楽家や鍼灸医の他、学者や棋士として身を立てる者もいた。
また早期の昇官に必要な金銀を得させやすくするために元禄以降、金銭貸付業としても高い金利が特別に許され、貧しい御家人や旗本をはじめ町人たちからも暴利を得ていた検校、勾当もおり、18世紀後半には社会問題化したこともある。
このため、時代劇などでは検校はあくどい金貸し業者として描かれていることがある。

しかし総じて、このような盲人への保護政策により三味線音楽や近世箏曲、胡弓楽の成立発展、管鍼法の確立など、江戸時代の音楽や鍼灸医学の発展が促進されたことは重要である。

官位を得るためには京都にあった当道職屋敷に多額の金子を持っていく必要があった(江戸の惣禄屋敷が設置されていた時には、関八州の盲人はここで官位を受けた)。
そのような背景をもって座頭市のような物語が描かれている。

当道座は男性のみが属することが出来る組織であり、盲目の女性のための組織としては瞽女座があった。
また、盲僧座とよばれる別組織も存在し、しばしば対立することもあった。

江戸時代、当道座に属する盲人の人数は、江戸時代を通じて常時3000人程度だったとされる。
天保年間、江戸には検校68名、勾当67名、座頭170名、それ以下の者360名がいたという。
当時の日本の総人口から推定される視覚障害者の人数は、5万人程度とみられた。
視覚障害者の一部しか、当道座などの互助組織に所属していなかったとされる説と、当時のほとんどの視覚障害者は当道座、盲僧座、瞽女座のいずれかに属していたとする説がある。
このため、詳細は不明である。

江戸幕府の崩壊の後、1871年(明治4年)、当道座は解体され消滅した。

ただし、明治以降にもいくつかの民間団体は盲官の名称を用いることがある。
あるいは、視覚障害者で、音楽などにおいて顕著な業績を上げた人への尊称として、検校などの敬称を用いることがある。

[English Translation]