彼岸 (Higan)

彼岸(ひがん)とは、煩悩を脱した悟りの境地のことで、煩悩や迷いに満ちたこの世をこちら側の岸「此岸」(しがん)と言うのに対して、向う側の岸「彼岸」という。

「彼岸会(ひがんえ)」は、雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた7日間のこと。
また、この期間に行われる仏事のこと。
暦の上では最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」なお、地方によっては最後の日を「はしりくち」という地方もある。
俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目、六波羅蜜を1日に1つずつ修めるためとされている。

由来
彼岸会法要は日本オリジナルであり、彼岸の仏事は浄土思想に由来する。

浄土思想で信じられている極楽浄土(阿弥陀如来が治める浄土の一種)は西方の遙か彼方にあると考えられている(西方浄土ともいう)。

春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。

もとはシルクロードを経て伝わった、生を終えた後の世界を願う考え方に基づいている。
心に極楽浄土を思い描き浄土に生まれ変われることを願ったもの(念仏)と理解されているようだ。

しかし後述のように、天皇の詔として仏教思想を全国に広げることを意図して始められた行事であったが、いつの時代も人として、生を終えた後の世界への関心の高いことは同じであり、いつの間にか生を終えていった祖先を供養する行事として定着するに至った。

彼岸会の「彼岸」は、「日願(ひがん)」から来ているとも言える。
日本に限らず古来から、太陽や祖霊信仰は原始宗教の頃からつきものなのである。
仏教語の彼岸は後から結びついたものであるという説(五来重による)もある。

806年(大同 (日本)元年)、日本で初めて彼岸会が行われた。
このとき崇道天皇(早良親王)のために諸国の国分寺の僧に命じて「七日金剛般若経を読まわしむ」と『日本後紀』に記述されている。

供物
日本で彼岸に供物として作られる「ぼたもち」と「おはぎ」は同じもので、炊いた米を軽くついてまとめ、分厚く餡で包んだ10cm弱の菓子として作られるのが一般的である。
これらの名は、彼岸の頃に咲く牡丹(春)と萩(秋)に由来すると言われる。

きな粉と胡麻
1271年(文永8年)9月12日、日蓮が鎌倉の龍口の刑場へ引き立てられていった。
急を聞いた桟敷の尼が、なにか最後のご供養をと考えたが、急であったため餡をつくる時間が無く、きな粉と胡麻をまぶして牡丹餅を作り日蓮に献上したという。
日蓮は、難を免れ佐渡に流罪となった。
この故事にちなみ陰暦9月12日、日蓮宗では「御難の餅」という胡麻のぼたもちを作って供える。
また「難除けぼたもち」「首つなぎぼたもち」などと呼ばれている。

[English Translation]