日本刀 (Japanese Sword)

日本刀(にほんとう、英:Japanese sword)は、日本に於いて独自に発展した方法で鍛えられた刀剣類の総称。
寸法により刀(太刀・打刀)、脇差(脇指)、短刀に分類される。
広義には、長巻、薙刀術、剣、槍なども入る。

刀を作る職の者を「刀工」、「刀匠」、「刀鍛冶」という。

概説

古来から武器としての役割と同時に美しい姿が象徴的な意味を持ち、美術品としても評価の高い物が多い。
皇室、神社等の古くから続く血統では権威の証としての宝剣(天叢雲剣等)が尊ばれていた。
また武家政権を背景に「武士の魂」として精神文化の支柱として機能した。

その特徴は、"折り返し鍛錬法"で鍛え上げられた鋼を素材とする点と、刀身となかご(茎 (刀)、中心)が一体となった構造である。
茎には刀身を目釘で柄に固定する目的の孔(目釘孔)が設けられている。

また日本刀は諸外国の刀剣類と異なり、外装品(拵え)とは別に刀身自体が美術的価値を発揮していることを以って最大の特徴である、と言える。

“日本刀”という呼称
「日本刀」は元来、海外からみた場合の呼称である。
古来の日本では「刀(かたな)」、もしくは「剣(けん)」と呼び、「日本刀」という呼称を使っていない。

「日本刀」という呼称は、北宋の詩人である欧陽修(おうようしゅう)の「日本刀歌」に見られる。
この詩の中で、越(華南)の商人が当時既に宝刀と呼ばれていた日本刀を日本まで買い付けに行くことやその外装や容貌などの美術的観点が歌われている。
「日本刀歌」が歌いたいことは日本刀のことではなく、中国では既に散逸してしまった書物が日本には存在しているということを嘆いた詩ではあるが、日本刀の美しさが、平安時代後期-鎌倉時代初期に既に海外の好事家などにも認められており、輸出品の一つとされていたことを示している。

「日本刀」という名称が、日本人にとっての一般的名称として広まったのは幕末以降のことである。
その理由として、幕末以降、西欧に流出して評価が高まった日本の絵画が従来の西洋の絵画と区別して「日本画」と呼称されるようになった事に対応して、西洋の刀剣に対して日本刀という呼び方が定着した。
それ以前は「打刀」(うちがたな)という呼称が一般的であった。
日本刀という呼称がナショナリズムと結び付いて語られるようになったのは主に昭和に入ってからの事であり、明治時代には刀など前時代の遺物でしかなく、満州事変の頃までは軍刀としてサーベル様式の刀剣が採用されていた。

日本刀の製法
「折れず、曲がらず、良く斬れる」の3要素を非常に高い次元で同時に実現させるため日本刀の製法には非常に高度な技術が集約されている。

以下にその概略を記す。

質の高い鋼の作成

たたら吹き日本刀の材料となる鋼を和鋼(わこう)もしくは玉鋼(たまはがね)と呼ぶ。
玉鋼は日本独自の製鋼法である「たたら吹き」で造られる。
諸外国の鉄鉱石を原料とする方法から決別し、砂鉄を用いることで低温で高速還元を実現し、さらには近代的な製鋼法に比べ、不純物が少ない良質の鋼を得ることができる(参考)。

水減し
熱した玉鋼を鎚(つち)で叩き、薄い扁平な板をつくる。
これを水に入れて急冷すると、余分な炭素が入っている部分が剥落ちる。
これを「水減し」(みずへし)という。
ここまでがへし作業と呼ばれる地金づくりである。

積沸かし
この焼きを入れて硬くした塊はへし金(へしがね)と呼ばれ、鎚で叩いて小さな鉄片に砕く。
これらの鉄片を「てこ」と呼ばれる鍛錬用の道具の先に積み上げて和紙でくるむ。
周囲に藁灰を付けさらに粘土汁をかけて火床(ほど)に入れ表面の粘土が溶けるくらい加熱する。
藁灰と粘土が加熱によって酸化され鋼の焼減りすることを防ぐ。
小槌で叩いて6x9cmくらいに固める。
鉄片が足らなければ更に積み上げ加熱して小槌で叩いて成形し所要の1.8-2.0kg程度の量にする。
以上が「積沸かし」の工程である。
玉鋼以外に炭素量の多い銑鉄と包丁鉄と呼ばれる純鉄も積沸かしと次の下鍛えの作業を行なう。

鍛錬(下鍛え)
赤熱したブロックを鎚(つち)で叩き伸ばしては中央から折り重ねる「折り返し鍛練」を繰り返し行う。
ちなみに刀匠(横座)と弟子(先手)が交互に刀身を鎚で叩いていく「向こう槌」が「相槌を打つ」という言葉の語源となった。
この段階では5-6回程度の折り返しが行なわれる。

鋼の組合せ

積沸かし
玉鋼、銑鉄、包丁鉄の3種類の下鍛えが済めば再び小槌で叩いて鉄片にし、それぞれの鋼の配合が適切になるように選んで、1回目の積沸かしと同じく積み上げて溶かし固める。
この段階で含有炭素量が異なる心金(しんがね)、棟金(むねがね)、刃金(はのかね)、側金(がわがね)の4種類の鋼に作り分けられる。

鍛錬(上鍛え)
心金で7回、棟金で9回、刃金では15回、側金では12回程度の折り返しが行なわれる。
叩き延ばした鋼を折り返しながら鍛錬を重ねることで、硫黄などの不純物や余分な炭素、非金属介在物を追い出し、数千層にも及ぶ均質で強靭な鋼へと仕上がっていく。

鍛接と沸延べ

下鍛えと2回目の積沸かし、上鍛えによって心金、棟金、刃金、側金の4種類の鋼が得られた後、棟金、心金、刃金の3層を鍛接して厚さ20mm、幅40mm、長さ90mm程の材料が4個取れるくらいに打ち伸ばし4個程度に切り離す。
これは「芯金」と呼ばれる。
側金も加熱され長さが芯金の倍になるくらいに叩き伸ばされ中央から切り離されて、芯金と同じ長さの側金が2本作られる。

側金、芯金、側金の順で重ねられ、沸かして鍛接されて、厚さ15mm、幅30mm、長さ500-600mm程度に打ち伸ばされる。
「てこ」が切り離されて、刀の握り部分になる「なかご」が沸かされ鍛接される。

素延べ
刀の形に打ち延ばす「素延べ」(すのべ)を行い、先端を切り落として切先を作る。
ここでの姿が最終的な日本刀の完成形を決めるため、慎重に小槌で叩き形を整えていく。

火造り
刀身の棟は三角になるように叩いて、刃の側(平地)は薄くなるように叩き延ばす。
なかごの棟を叩いて丸みを付け、最後に「鎬地」(しのぎち)を叩いて姿を整える。
刀身全体をあずき色まで低く加熱し除冷する。

空締め
冷えてから表面の黒い汚れを荒砥石で砥ぎ落とし、平地と鎬地を小槌で叩いて冷間加工を行なう。
棟と刃の直線を修正して、銑(正しくは金偏に舌、せん)と呼ばれる鉄を削るかんなで凹凸を削る。
この段階で「刃渡り」と「区」(まち)が定まる。

生砥ぎ
かんなの削り跡を砥石で砥ぎ落とす「生砥ぎ」(なまとぎ)を行なう。
その後、水を含む藁灰で油脂分を落とし乾燥させる。

温度管理

土置き
加熱した刀身を水などで急激に冷やす「焼き入れ」の準備として、平地用、刃紋用(刃文用)、鎬地用の3種類の焼場土(やきばつち)を刀身に盛る「土置き」を行なう。
平地に平地用の焼場土を均一に薄く塗り、刃紋に筆で刃紋用焼場土を描く。
最後に刃紋から棟までを鎬地用焼場土を厚く盛る。
鎬地の焼場土を厚くすることで、焼き入れでの急冷時に刃側はすばやく冷やされ十分に焼きが入り、棟の側は比較的緩慢に冷えるために焼きはそれほど入らなくなる。
焼きによって容積が膨張しながら硬くなり、日本刀独特の刃側が出っ張った湾曲を生む。
棟の側は膨張が少なく硬度より靭性に富んだ鋼となり硬いが脆い刃側の鋼を支える機能を担う。

焼き入れ
通常、刀匠は焼き入れの時には作業場の照明を暗くして、鋼の温度をその光加減で判断する。
土置きした刀身を火床に深く入れ、先から元まで全体をむらなく800℃程度にまで加熱する。
加熱の温度は最も重要であり、細心の注意を払って最適の加熱状態を見極め、一気に刀身を水槽に沈め急冷する。
刀身は前述の通り水の中で反りを生じ、十分な冷却の後に引き上げられ、荒砥石で研がれ焼刃が確認される。
その後、刀身は炭の火焔にあぶられて「焼き戻し」が行なわれる。
これが「合取り」(あいとり)と呼ばれる作業である。
反りは横方向にも少し生じるので木の台で小槌を使い修正する。
なかごも焼きなまして形を整える。

焼き入れにより、刀の表面にはマルテンサイトと呼ばれる非常に固い組織が現れる。
マルテンサイトの入り方によって、肉眼で地鉄の表面に刃文が丸い粒子状に見えるものを錵(にえ)又は沸(にえ)と呼び、一つひとつの粒子が見分けられず細かい白い線状に見えるものを匂(におい)と区別する。

水以外にも、油で焼きを入れる事などが他の刃物類では有り、日本刀の場合では戦中の軍刀などで行われた事が有るが、現在では油で日本刀に焼きを入れる事が行われる事は少ないと思われる。
油で焼きを入れると失敗は少ないが、刃文に冴えを出せず斬れ味は別として、美術工芸品を志向する現代刀には不向きだからである。

仕上げ

ここから大まかな形成から細かい作業を行う仕上げ段階に入る。

鍛冶押し
焼き入れを終了させた刀の反り具合を修正し、刀工が荒削りをする。
この時に細かな疵や、肉の付き具合、地刃の姿を確かめながら最終的な調整を行う。

茎仕立て
茎(なかご)は銑ややすりで形を整え、柄(つか)をはめる時に使用する目釘穴を普通は1つ、居合用の刀の場合2つ以上開ける。
この後に刀工独自の鑢目(やすりめ、滑り止め目的)を加える。

銘切り
刀工は最後に鑿(たがね)を使い、自らの名前や居住地、制作年などを茎に銘を切る。
一般的に表(太刀や刀を身に付けた際、外側になる面)に刀工名や居住地を切り、裏に制作年や所持者名などを切ることが多いが、裏銘や無銘など例外もある。

これにより、刀工が行う一通りの作業が終わり、これからは研師により最終的な研ぎを行うが、室町時代以前は刀工自ら研磨も行っていたといわれる。
日本刀研磨は、他の刃物砥ぎと、かなり相異する点としては、刃物としての切れ味を前提としつつ、工芸品としての日本刀の美的要素を引き出す事を主眼としている点、刃部のみで無く、刀身全体に砥ぎを施す事等である。
鞘師によりその刀に見合った鞘を作成することになる。
日本刀は刀工だけが造るものではなく、研師や鞘師などの職人によって初めて完成するものである。

各部名称

刀は大きく、鞘・刀身・柄・鍔の部分に分けられる。


鞘は、刀身を差し入れる方を鯉口、逆の側を小尻と呼ぶ。
また、柄には鞘を帯に固定したりする用途で栗形と呼ばれる部分が付いており、下緒と呼ばれる紐を通して用いる。

日本刀を抜くときの所作で、親指を鍔にかけ、鞘から少し抜き出す動きがあるが、これを「鯉口を切る」という。

刀身

日本刀の多くは片刃であるが、刃のない側を峰(みね)と呼び、刃と峰の間の膨らんだ部分を鎬(しのぎ)と呼ぶ。
刀身の、柄に収まる部分は茎(なかご)と呼ばれ、茎には時として製作者の名前が刻まれ、銘と呼ばれる。
また、茎には、刀身を柄に固定するための穴が開けられており、その穴を目釘穴、固定するための小片を目釘と呼ぶ。

日本刀を鑑賞するときには、特にこの刀身に注目することが多く、刀を打つときにできた刃の様子を、刃紋、沸(にえ)、肌などと呼んで鑑賞の対象とする。


茎を包みこみ、使用者の握りを確かなものにするために重要な役割を持つ部分である。
多くは木製で、その上を柄鮫を張り柄巻きと呼ばれる帯状の細い紐で巻いて構成されている。

柄と刀身を貫いて固定するための小片を目釘、通すための穴を目釘穴と呼ぶ。
また目貫(元来は目釘の役目をしていた)という装飾がつけられる。
また、柄の一番手元に来る部分は柄頭と呼ばれ、装飾と実用を兼ねた金属が付けられることも多い。


日本刀の特徴として、外装品(拵え)と刀身を別々に分けることができる点があるが、この鍔と刀身の間をハバキや切羽などで押さえることで、刀身は鍔と固定されている構造となっている。

歴史

日本刀は、政治、経済、文化、風俗、習慣など、その時々の歴史的要因とあいまって変貌を繰り返してきた。

上古から湾刀の出現まで

古墳時代にはすでに鉄製の刀剣が作られていた。
例えば埼玉県の稲荷山古墳や島根県の古墳時代前期を代表する出雲の大型方墳である造山古墳 (島根県)からは鉄剣、大刀が出土している。
稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣にはワカタケル(雄略天皇)に仕えた功績を記念して471年に作ったとの由来が115文字の漢字で刻まれている。
この時代の刀剣の多くは朽損しているが、島根県安来市のかわらけ谷出土の金銅装環頭大刀は、奇跡的に優れた保存状態にあり、黄金色の柄をもち刀身さえも古代の輝きを今に伝える稀有な例として有名である。

7世紀-8世紀以降の刀剣には原形を良く留めているものが多く、四天王寺の「丙子椒林剣」(へいししょうりんけん)や「七星剣」(しちせいけん)、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀」(きんぎんでんそうのからたち)などが知られている(湾刀完成以前の直刀には「太刀」ではなく「大刀」の字をあてる)。
推古天皇が「馬ならば日向国の駒、太刀ならば呉のまさび」と詠んでいるように、この時代、呉(中国南東部の総称)の刀が最良とされていた。
が、日本の鍛冶職人の水準も上昇してきた。
正倉院では唐太刀と呼ばれる海外からの渡来品と共に、唐様太刀と呼ばれる国産の直刀も保管されている。
また、平造り・切刃造りの直刀、蕨手刀(わらびてのかたな)といった国産の剣も現存している。

平安時代初期の刀剣の遺品は乏しく、作風の変遷や、いつごろどのようにして日本独自の湾刀が形成されたかについては、学問的に十分解明されていないが、承平天慶の乱などが発生した平安時代中期以降(10世紀ころ)従来の直刀に代わって騎乗時に扱い易い刀身に反りのある蕨手刀(彎曲刀)が使用されるようになった。
これは長らく苦しめられた東北との紛争で俘囚が騎乗しながら使用していた蕨手刀が影響しているとみられる。
また、平造り・切刃造りに代わって、刀身の断面が長菱形である「鎬造り」(しのぎづくり)の刀剣が造られるようになったのもこの時代である。
「鎬造り」は平造り・切刃造りより頑丈で斬りやすいとされている。
以上の変化の過渡期にあたるのが柄が刀身と共鉄の毛抜形太刀や、鋒両刃(きっさきもろは)造りで反りのある小烏丸(こがらすまる)である(小烏丸は古伝書には大宝 (日本)年間(8世紀初頭)の刀工「天国 (人物)」(あまくに)の作とあるが、実際の制作は平安中期と見るのが定説となっている)。
毛抜形太刀は、藤原秀郷所用と伝える伊勢神宮のものが著名である。
柄に毛抜形の透かし彫りがあることからこの名がある。

太刀の時代

平安時代後期、特に武家勢力が活発になった前九年の役や後三年の役あたりから武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達し、通常これ以降の物を日本刀とする。
良質な砂鉄がとれる雲伯国境地域や備前国と、政治文化の中心である山城国・大和国などに刀工の各流派が現れてきた。
このころの日本刀は馬上決戦を中心に考えられた太刀が主体である。
源頼光が大江山の酒呑童子を斬ったとされる「童子切」(伯耆国の安綱作、国宝)やキツネに合鎚を打たせたという伝説のある「小狐丸」(山城国の三条宗近作、第二次大戦時に焼失)などがこの時期を代表する日本刀である。
「童子切」の作者である雲伯国境の安綱は古伝書には時代を9世紀初めの大同年間(806年頃)とするが、現存作品を見る限りそこまで時代は上がらず、平安中期、10世紀末頃と見るのが刀剣史では通説となっている。
安綱のほか、山城(京)の三条小鍛冶宗近、古備前友成などが、現存在銘作のある最古の刀工とみなされる。

平安時代の太刀の特徴を以下に列記する。
造り込みは鎬造り、庵棟(いおりむね)で、鋒(きっさき)が詰まって小切先となる。
姿は腰反りが高く、物打(ものうち)の方は反りが小さく、踏ん張りのある(元幅に比べて先幅が狭くなっていく形)優美な姿をしている。
刃文(はもん)は直刃(すぐは)または小丁子(こちょうじ)・小乱(こみだれ)が入っており、沸(にえ)出来である。
焼幅はあまり広くなく、刃区(はまち)から少し先の方から刃文が始まっているものが多い。
茎(なかご)は反りがあり、雉股(きじもも)形のものもある。

鎌倉時代初期の日本刀は平安時代末期とあまりかわらない姿をしているが、鎌倉幕府による武家政治の体制が確立し、刀剣界が活発になっていく。
後鳥羽上皇は後鳥羽院番鍛冶を設置し、月ごとに刀工を召して鍛刀させ、上皇自らも焼刃を施したといわれ、積極的に作刀を奨励した。
一文字則宗は有名。
この時期には山城国の粟田口派、備前国の一文字派が新たに興った。

鎌倉時代中期になると、実用性を重視した結果、身幅が広く元幅と先幅の差も少なくなり、平肉がよくついてくる。
鋒は幅が広く長さが詰まって猪首(いくび)となり、質実剛健の気風がよくでている。
この頃から短刀の制作が活発になり、作例がしばしば見うけられる。
この時期の短刀の特徴としては、反りがないか、わずかに内反りになっており、茎は反りのないものと振袖形(ふりそでがた)がある。
この時期の有名な刀工として、山城の粟田口派の国吉、吉光、同国来派(らいは)の国行、来国俊、二字国俊(銘字を「来国俊」でなく単に「国俊」と切る)、相模国の新藤五国光、備前の福岡一文字派、備前長船派の光忠、備中国の青江一派が存在する。

山城、大和、備前、美濃、相模の5か国の作刀を特に「五ヵ伝」という。
これら5か国の作刀には、それぞれ地鉄、鍛え、刃文などに独自の特色があり、それを「山城伝」、「相州伝」などと称する。
なお、相模国については「相模伝」とは言わず「相州伝」という習慣がある。

鎌倉時代末期、二度の元寇や政治体制の崩壊などの動乱により、作刀はさらに活気づく。
この時期の日本刀は、鎌倉中期の姿をより豪快にしたものに変わっていく。
身幅はより広くなり元幅と先幅の差も少なくなり、鋒が延びたものが増えてくる。
短刀やその他の刀も太刀と同じように長物がでてくる。
この時代もっとも輝いた刀工といってもよい、相州伝の大家岡崎五郎入道正宗が存在する。
彼の作風はこれまでにない地刃の働き=金筋(きんすじ)・稲妻(いなずま)・地景(ちけい)などと称されるさまざまな刃中の「働き」が顕著である。
正宗の作風は各地の刀工に絶大な影響をあたえた。
世に「正宗十哲」とよばれる刀工がいる。
彼らの大部分は、後世の仮託であり、正宗とは実際の師弟関係がないにも関わらず、正宗の相州伝が各地に影響を及ぼしたことがよくわかる。

政治的時代区分では室町時代に包含されることの多い南北朝時代 (日本)は、刀剣武具史ではあえて別な時代として見るのが一般的である。
この時代の刀剣は他の時代と違い大太刀・野太刀といった大振りなものが多く造られている。
すでに述べた通り、この時代は相州伝が各地に影響をおよぼしている。
刃文は「のたれ」に「互の目乱れ」(ぐのめみだれ)を交えたものが良く見受けられる。
この時代の太刀は、元来長寸の大太刀であったものを後世に磨上げ(すりあげ)・大磨上げ(おおすりあげ)されて長さを調整され、打刀に造り直されているものが多い。
またこの時代には小太刀もいくらか現存しており、後の打刀を連想させるものと思われる。

室町以降

室町時代初期には備前長船盛光、備前長船康光、同じく備前に師光、家助、経家、等の名工が輩出した。
これらは応永年間に作られたものが多いので世に「応永備前」と呼ばれて珍重されている。
平和な時代が始まったため刀剣の国内需要は低下したが、明への重要な貿易品としての生産も行われるようにもなった。
そして応仁の乱によって再び戦乱の世が始まると、膨大な需要に応えるため「数打物」と呼ばれる粗製濫造品が大量に出回るようになり、刀剣の質の低下に拍車をかけることとなった。
戦国時代は粗悪な数打物の大量生産を招来したが、一方で原料を生産する鉄鋼業は国内におけるたたら技術の進歩、南蛮貿易による鉄砲の伝来によって急速な進歩を遂げる事になる。
良質な鋼の安定供給が可能となり、この時代の刀鍛冶の入念作や武将が己が命運を託するために特注した「注文打ち」には名刀が多い。
戦国時代に入ると末古刀の双璧である孫六兼元と和泉守兼定、伊勢に村正などが現れる。

(室町中期以降、日本刀は刃を下向きにして腰に佩(は)く太刀から、刃を上向きにして腰に差す打刀(うちがたな)に代わってくる。
なお、太刀・打刀とも、身に付けた時に外側になる面が刀身の表で、その面に刀工銘を切るのが普通である。
したがって、銘を切る位置によって太刀と打刀の区別がつく場合が多いが、裏銘に切る刀工もいる。)

刀剣史では、慶長以降の作刀を「新刀」として、それ以前の「古刀」とは区別がされている。
この時期、江戸、京都、大坂に名工が集まり腕を競った。
江戸時代に入ると江戸、大坂をはじめ各地に鍛冶が繁栄し、長曾祢虎徹(ながそねこてつ)、堀川国広、井上真改、津田助広などの名工が現れた。
従来は武器製造業の職工的な性格が強かった刀鍛冶にも作家的気質を持つ者が現れてきた。
また財政的に裕福な商人が豪奢な脇差を特注するなど、刀の新たな需要も発生した。
特に大阪には真改、助広が現れ、大阪新刀と呼ばれる絢爛華麗な作風を展開した。
しかし保守的な武士からは絵画的で華美な刃文で退廃的だと忌避されるものもあった。
また、剣術が竹刀による稽古中心となった影響で、刀の形状も極めて反りが浅くなった。
元禄以降太平の世になると新たな刀の需要はなくなり、刀を作る者も殆んどいなくなった。
しかし一方でこの時代には鐔(つば)、小柄(こづか)、目貫(めぬき)、笄(こうがい)などの刀装具の装飾が発達し、これらの装剣金工の分野にも林又七、土屋安親、奈良利壽、横谷宗珉、濱野政随、後藤一乗ら多くの名工が生まれた。

幕末期になり世の中が騒然としてくると、復古主義の思想から、水心子正秀(すいしんしまさひで)らを中心に古刀の鍛錬法の復元を試み、再び実戦的な日本刀が作られるようになった。
これ以降の作刀を「新々刀」とよぶ。
正秀の弟子の庄司大慶直胤、源清麿、左行秀、固山宗次、などが現れる。
しかし作刀が再び繁栄を始めたところで明治維新を迎え、明治6年(1873年)に仇討ちが禁止され、明治9年(1876年)3月28日に警察官・軍人以外は帯刀を禁止する廃刀令が出されたことにより、日本刀は急速に衰退してしまった。

明治から第二次世界大戦

明治6年、ウィーンで開かれた万国博覧会に日本刀を出品。
国際社会に日本人の技術と精神を示すものであった。
しかし廃刀令以後は新たな刀の需要は殆んどなくなり、当時活躍した多くの刀鍛冶は職を失った。
また多くの名刀が海外に流出した。
それでも政府は帝室技芸員として、月山 (日本刀)、宮本包則の二名を任命。
伝統的な作刀技術の保存に努めた。

一方で西南戦争における抜刀隊への評価から、日本陸海軍が将校の主要兵器として軍刀を採用し続け、サーベル様式の軍刀拵えに日本刀を仕込むのが普通となり、さらには日露戦争における白兵戦で近代戦の武器としての日本刀の有効性が確認され、また昭和に入り国粋主義的気運が高まった事から、陸海軍ともにサーベル様式の軍刀拵えに代わり鎌倉時代の太刀拵えをモチーフとした、日本刀を納めるのにより適した軍刀拵えが開発された(しかし同時に、軍刀として出陣した古今の数多くの刀が戦地で失われることともなった)。

満州事変以後、軍造兵廠や一部の各機関の研究者は拵えだけでなく刀身においても兵士の装備としての可能性を追求した。
例えば満州の厳寒に対応した「振武刀」や海軍が使用したステンレス鋼の日本刀(「耐錆刀」)など、各種の軍刀が研究された。
日本刀の材料・製法を一部変更したものから、日本刀の形態を模した工業刀に至るまで、様々な刀身が試作・量産された。
これら特殊軍刀々身は「昭和刀」「新村田刀」「新日本刀」などと呼称され、物によっては従来の日本刀よりも(俗に名刀と呼ばれる刀であっても)武器としての資質において勝るものも数多くあったという。
粗悪品だったという俗説も未だ根強いが、これらはあくまで悪徳業者の販売した粗悪刀等で、一部を除き(初期や末期には粗悪品が見られる)妥当な評価ではない。
鋳造説、造兵廠製刀身は粗悪品説に至っては論外である。
これらは将校准士官(軍刀初め軍服 (大日本帝国陸軍)は私物として自費購入であった)には安価で惜しげなく使える刀身として重宝され、下士官兵には官給軍刀(九五式軍刀等)として支給され、大量に実戦投入された。

本来の「戦いの武器としての日本刀」という観点では、各特殊軍刀々身は近代技術を取り入れらて完成された日本刀となり、肝心の実用性に於いては究められたものの、見た目の美的要素は皆無な物が多く(関の半鍛錬昭和刀の様に双方を兼ね備えた物もある)、今日では製造方法の上からも、日本刀の範疇には含まれない事にはなっている。
しかし最近になり、刀剣界では今まで見向きもされなかったこれらの軍刀にも人気が出てきており、同時に研究家や収集家の新たな発見や偏った俗説の否定等、再評価の声が高くなっている。
(軍刀刀身・軍刀についても参照)

第二次世界大戦後

太平洋戦争(大東亜戦争)降伏後、日本刀を武器であると見なした連合国軍最高司令官総司令部により刀狩が行われ、蛍丸を始めとした数多くの刀が遺棄・散逸の憂き目にあった(熊本県のように、石油をかけて焼かれた後海中投棄された例もある)。
また、「刀があるとGHQが金属探知機で探しに来る」との流言も飛び交い、土中に隠匿して、その結果刀を朽ちさせ駄目にしたり、回収基準の長さ以下になるように折って小刀としたり、自主的に廃棄するなどした例は枚挙に遑がない。
GHQに没収された刀の多くは赤羽にあった米軍の倉庫に保管され、占領の解除と共に日本政府に返還された。
しかし、元の所有者が殆ど不明のため、所有権は政府に移り、刀剣愛好家の間でこれらの刀剣は「赤羽刀」と呼ばれている。

一時は日本刀そのものの存続が危ぶまれたが、日本側の必死の努力により、登録制による所有が可能となった。

日本刀自体には登録が義務付けられており、登録がなされていない刀は、警察に届け出た後審査を受ける必要がある。
所持に関しては銃刀法による制限を受けるが、所有については許可などは必要なく、誰でも可能である(条例により18歳以下への販売を規制している所はある)。
なお、購入などの際には、登録証記載の各教育委員会への名義変更届が必要である。
今日では日本刀は武器ではなく、居合/居合といった武道用の道具、絵画や陶器と同格の立派な美術品であり、その目的でのみ製作・所有が認められている。
さらに刀匠一人当たり年に生産してよい本数の割り当てを決め、粗製濫造による作品の質の低下を防いでいる。
しかしその一方で、一部の刀匠を除き多くの刀匠は本業(刀鍛冶)だけでは当たり前ながら作刀需要が少ない為生活が難しく、かと言っては上述の本数制限もあり無銘刀は作刀出来ず、武道家向けに数を多く安く作りその分稼ぐという事も出来無い為、他の伝統工芸の職人と同じく数々の問題を抱えているという事も理解しなくてはならない。

時代による分類

上古刀
通常日本刀の分類に入らない、古刀以前の刀をさす。
直刀が主であるが、大刀などにはそりが見られるものがある。

古刀
狭義の日本刀が制作されてから、慶長以前の日本刀をさす。
室町中期以前は、太刀が主である。

末古刀
室町時代末期、概ね戦国時代_(日本)頃の古刀を、特に「末古刀」と呼び、区別することがある。
「数打ち」の粗製濫造品が多い。

新古境
安土桃山時代頃の、古刀から新刀への過渡期をこう呼んで区別することがある。

新刀
慶長以降の刀をさす。
この時期の日本刀は、さらに「慶長新刀」「寛文新刀」「元禄新刀」に分類される。

新々刀
「水心子正秀の提唱により制作された古刀の鍛錬法を用いた刀」など諸説あるが概ね18世紀末か19世紀初め以降の幕末頃の日本刀をさす。

現代刀
これも諸説あるが明治9年の廃刀令以降に作刀された刀剣をさすことが多い。

昭和刀
美術刀剣としての日本刀の分類から除外されてしまっている日本刀。
昭和に製作された刀の全てを指すわけではなく、主に軍刀向けとして作られた兵器用の刀「模造刀」を指している。
製法は様々であるが、本鍛錬刀と認められないものは原則教委の登録が刀に下りず、所持することは禁じられ、所持許可証が必要となる。
しかし、明らか本鍛錬刀とは見られない特殊刀であっても、登録を堂々正式に受けているも数多くあり、全時代全国全審査員共通の確固たる制式があるかという面に於いては考慮が必要である。
別名、昭和新刀。

形状による分類

打刀
反りのある刀身を持ち、柄や鍔、切羽など複数の部品で構成される、一般的な形状の日本刀。
単純に「日本刀」と言った場合、打刀を指す事が多い。
現代の分類では、刃長(切っ先から棟区までの直線距離)60cm以上のものを指し、60cm未満のものは脇差と呼ぶ。

太刀
構造は打刀と殆ど同じだが、携帯方法が大きく違い(打刀は刃を上にし帯に差して携帯するのに対し、太刀は刃を下にし吊るして携帯する)、それに伴い拵(外装)も異なる。
又、柄や鞘の装飾が凝らしてある物も多い。
現代の分類では刃長60cm以上のものを指し、60cm未満のものは脇差と呼ぶ。
前述してあるように刀身のみを見比べれば大きな違いはないが、全般的にそりが深いのが特徴である。

脇差(脇指)
刀身の短い打刀(太刀)。
現代の分類では、刃長30cm以上60cm未満のものを指す。
脇差の中でも60cmに近い刃長を持つものを特に小太刀または長脇差と呼ぶ。

大太刀
長大な刀身を持つ打刀(太刀)。
野太刀とも言う。
現代の分類では、刃長が90cm以上のものを指す。
腰に差す(吊るす)には長すぎる為、背負うか担ぐかして携帯された。
使い方は重量に任せて馬上から叩き斬るのが一般的。

毛抜形太刀
茎 (刀)(なかご)が柄(つか)の役割を兼ねている太刀。
直刀から湾刀への過渡期に存在する。

小烏丸
刃区から物打辺りまで鎬造り(しのぎづくり)であるが、切先が両刃造りに似ている。
反りも少し有る。
直刀から湾刀への過渡期に存在する。

短刀
現代の分類では、刃長30cm未満のものをいう。
ただし、30cm以上であっても反りのほとんどない平造りのものなどは「寸延び」などといい短刀に含める場合がある。

長巻
ほぼ刀身と同じ長さの柄を持つ大太刀。
大太刀の柄を延長して取り回し易くした「中巻き」から発展したもの。
長巻と中巻きの違いは、最初から柄を長く作ってあるか、通常の大太刀の柄を延長して長くしたものか、の違い。
正倉院内に原型らしき長柄武器が残っている。

長巻直し
薙刀
打刀や太刀の様に湾曲した刀身を持つ、長柄の武器。
外見は長巻に似ているが、長巻との関係性には諸説あり実際の所は不明。

薙刀直し
薙刀を元に作り直した刀。
薙刀は打刀に比べると刃渡りが比較的短い為、茎を切り詰めて脇差や短刀に仕立てたものが多い。

短い刃と長柄を持つ代表的な長柄武器。
突きに特化する為に両刃の刀身を持ち、折れにくいように分厚く(中には刃の断面がほぼ正三角形のものも存在する)作られている。
厳密には「刀」とは言い難い。

仕込み刀
別のものに刀身を仕込み、刀である事を偽装した隠し武器。
主に日用品などに偽装したものと、他の武器に小さな刀身を仕込み二段構えの武器としたものの二種類がある。
刀身は「頑丈さ」よりも「隠し易さ」を優先しており、他の日本刀に比べると細く折れ易い。
現在は銃刀法により所持・所有が禁止されている。

造り込みの種類

鎬造り(本造り)
ほとんどの日本刀はこの造り込みで作られている。
上記の写真もこの造り込みである。
切刃造りが進化してできたと思われる。

片鎬造り
片面が鎬造り、片面が平造りでできている。

平造り
短刀や小脇差によくある造り込み。
鎬がないもの。
平造りの打刀も室町時代中期から末期の間にごく少数見られる。

切刃造り
鎬がより刃先の方にある造り込み。
主に上古刀に見られる。

切先双刃造り・鋒両刃造り・切先両刃造り・鋒双刃造り(きっさきもろはづくり)、小烏造り(こからすづくり)
切先に近い部分のみが、剣のように両刃になっているもの。
特に、小烏造りは刀身の二分の一以上が両刃になった擬似刀と呼ばれる剣の造りを指す。
現存する刀では小烏丸がこの造り込みでできている。

菖蒲造り
鎬造りに横手を取り除いた形の造り込み。
形状が菖蒲の葉に酷似しているのが、この名前の由来である。
主に脇指に見られる。

鵜の首造り
鋒から少し下だったところから途中まで、棟の側肉が落とされているもの。
鵜の首のように細くなっていることが、この名前の由来である。

冠落造り
鋒に向かって棟の側肉が落とされているもの。
一般的に薙刀樋を付けたものが多く、短刀によく見られる。

両刃造り(もろはづくり)
鎬を境にして双方に刃が付いており、鋒が上に向いているもの。
室町時代中期以後の短刀に見られる。
まれに両刃造りの長刀も存在するが、殺傷能力のみを追求した日本刀として有名。

おそらく造り
横手の位置が通常の鎬造りと違い大きく茎の方によっており、鋒が刀身の半分から三分の二を占めているもの。
短刀に見られる。
この名称の発端については諸説あり、ある武将の短刀がこの造りで、その刀身に「おそらく」(恐ろしきものという意味)と彫ってあったのでこの名がついたと言う説が主流である。

反りの種類

一般的に時代が降るにつれ、腰から先へ反りの中心が移動していく傾向になっている。

腰反り(こしぞり)
反りの中心が鋒と棟区の中心より下の方に位置するもの。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての太刀に見られる。

中反り(なかぞり)、華表反り(とりいぞり)
反りの中心が鋒と棟区のほぼ中心に位置するもの。
鎌倉時代中期以降に見られる。

先反り(さきぞり)
反りの中心が鋒と棟区の中心より上の方に位置するもの。
室町時代以降の刀に見られる。

内反り(うちぞり)
一般的に棟に向かって反るものだが、その逆で刃に向かって反っているものをいう。
鎌倉時代の短刀・正倉院宝物の「刀子(とうす)」に見られるが、海外のナイフ・短剣にも見られる、世界普遍的(ユニバーサル)な「かたち」である。

茎(なかご)の鑢目(やすりめ)の種類

鑢目は柄から刀身を抜けにくくするために施される。

国、時代、流派により使われる鑢目が違うため、日本刀の鑑定でよく見られる。

切り(横、一文字)
勝手下り
勝手上り
左利きの刀鍛冶に特徴的な鑢目であるため、鑑定では大きなポイントになる。

筋違
大筋違
逆大筋違
鷹の羽(羊歯)
檜垣
化粧鑢
上記各鑢目に組み合わされる装飾である。
新刀期の後半以降に見られるため、時代判別の際のポイントになる。

ならし(&37855)鑢

鋩子の種類
小丸
小丸上がり
小丸下がり
一文字返り
横手上刃細し
大丸
焼き詰め
掃きかけ
乱れ込み
丁字乱れ込み
地蔵
火炎
一枚
沸崩れ
湾れ込み
突き上げ

切先の種類
かます切先
小切先
猪首切先
中切先
大切先

地肌による種類

杢目肌
大杢目肌
中杢目肌
小杢目肌
柾目肌
板目肌
大板目肌
小板目肌
綾杉肌(月山肌)
松皮肌
則重肌
ひじき肌
梨子地肌
小糠肌
縮緬肌
無地肌

地刃の働きの種類
日本刀の地刃の働きは主に鋼を焼き入れした時に生じるマルテンサイトによって構成される。

沸(にえ)
マルテンサイトの粒子が大きいもの
匂い(におい)
マルテンサイトの粒子が小さいもの

沸と匂いの組み合わせによって以下の様々な働きが現象する。

映り(うつり)
地景(ちけい)
金筋(きんすじ)・金線(きんせん)
砂流し(すながし)
湯走り(ゆばしり)
足(あし)
葉(よう)

日本刀の表記
日本刀は上掲の専門用語で表記される。
冶金学的現象に対応した日本刀独自の名称が存在する事で、個別の刀の特徴を言い表す事が可能となり、文字による作風の伝承、異なる刀の比較考量、即物的な観賞を超えた学問的研究が可能となった。

日本刀表記の例 「日本名刀大図鑑」新人物往来社 佐藤寒山 P.130 (表現を一部改めて引用)
刀 銘 兼元
法量 刃長 71.5㎝ 反 2.1㎝
形状 鎬造り、庵棟、平肉つかず、先反やや強く、中峰延びる。
鍛え 小板目肌詰み、僅かに流れ、総体に白けごころがある。
刃文 三本杉、所々欠け出し、匂い口締り、砂流しかかり、小沸付く。
帽子 乱れこみ、小丸、先掃きかける。
中心 生ぶ、先浅い入山形、鑢目鷹の羽、目釘孔三つ、表棟寄りに二字銘がある。

これらに加えて登録番号を表記する事が望ましい。

古来より刀の特徴を示す表現として
奉書紙の裂き口の如し
雪の叢消えの如し
松の葉に雪が積もれたるが如し
(以上は刃文の態様を言い表す表現)等、極力具象的な表記がなされ、鑑賞者の主観的な思い入れが混入する事を排除している。

・趣味的表記 宣伝的表記

一方で刀は売買の対象でもあり、特に明治時代以後現代にいたるまで、骨董品として、美術品として、刀に商品としての性格、趣味の物としての性格が強くなると、商品価値を上げるための客観性を欠いた表記や宣伝的な表記、所有欲をくすぐる表記、自分が好きな刀への思い入れたっぷりの表記、などがある。
専門用語を駆使しながら、情緒的、抽象的で「ウソ、大袈裟、紛らわしい」ものもあり、注意が必要である。

趣味的表記 宣伝的表記の例 (ウィキペディア内より採取)

「刃中の働きは元から切っ先までむらなく”匂い口が締まってサーッと消え入りそうに刃先に向かう”のが最大の特徴であり、匂い口を締て刃中を働かせていいることなど古刀期ならではの技量であり、地鉄の良さが平安・鎌倉(”二流工”の意味)をも凌ぐと武家目利の興趣は絶賛しており、兼定に始まって兼定に終わるとさえ云われている、孫六兼元のような”変化の激しさ”とは対照的に”静寂”な作風である、之定銘の作は素人受けする派手な刃紋が多い、銘は自身銘であり、銘切師には一切切らせておらず”奥義”のある銘振りである。
古来より入札鑑定などで村正と比較されるが村正の地刃は黒づみ地方色がある、兼定は一切黒ずまず冴えており白気映りの立たない上手な作が現存している、兎に角 地鉄(じがね)が素晴らしいことで定評がある。」

日本刀の能力

日本刀は「折れず、曲がらず、よく切れる」といった3の相反する性質を同時に達成することをベースにその作刀工程が発達してきたと考えられる。
現代の金属学においても「折れず、曲がらず」を「強度と靭性の両立」とよび構造材料の改良研究が日夜行われているのは今も昔も変わらない。
すこしでも手を抜くとこの両立のバランスが崩れてしまうからである。
また「よく切れる」と「折れず」も両立することが難しい。
これは刃先は硬く、芯に向かうと硬さが徐々に下がるいわゆる傾斜機能構造を持つことで圧縮残留応力を刃先に発生させることで実現されている。
今解説したのは、刀身全域において理想状態が実現した場合の話で実際は目に見えない欠陥により脆くも折れてしまうことがある。
ただし理想状態の日本刀が「世界最強の刃物」として語られるのは故無きことではない。

日本刀の切れ味については、様々なところで語られる。
よく知られるところで、榊原健吉の胴田貫一門の刀による「兜割り」が有名である。
テレビの通信販売番組でも「刃物の製造に関しては世界一の技術を誇る日本」などのフレーズが使われることがある。
尤も、この切れ味は最適な角度で切り込んでこそ発揮できるもので、静止物に刀を振り下ろす試し斬りならともかく、実戦で動き回る相手に対し常に最適の角度で切り込むのは至難の業である。

日本刀のうち、江戸時代の打刀は、江戸幕府の規制(2尺9寸以上の刀すなわち野太刀は禁止された)と、外出中は大小を日常的に帯刀することから、(江戸幕府の)創成期と幕末期を除き、刃渡り2尺3寸(約70cm)程度が定寸である。
また、江戸時代には実戦に供する機会がなくなりが多々行われた。
刀剣は一般的なイメージよりも軽く作られている。
しかし、薩摩武士が帯刀していた薩摩拵なる1.3倍程度長大な刀は、一度振り下ろすと次に構えるまで間があいてしまい、そのため一発目でしとめるいわゆる示現流の流派が流行った。
後に、薩摩武士らは海軍の要職を占めるが、この気質をもとにドイツ等で当時の最新の砲術兵器を学び一発でしとめる名手が海軍大将などを歴任した。
以下に比較対照をいくつか列挙する。

なお、これらは抜き身の状態の重量である。

打刀(日本):刃渡り70cm~80cmの場合 850g~1400g程度 (柄、鍔などを含める、抜き身の状態。
刃渡り100cm程のものは、3000g以上)

サーベル(世界各地):刃渡り70cm~100cmの場合 600g~2400g程度
シャスク(東ヨーロッパ):刃渡り80cm 900g~1100g程度
中国剣(中国):刃渡り70cm~90cmの場合 500g~1000g程度 (両手用、刃渡り80cm~100cmほどのものは900g~3000g程度)

以上は近代まで使われていた物である。
日本の刀は、他の刀剣と比べ柄が長いため、刃渡りで見る場合、軽い訳ではない。
しかし、両手で扱う刀剣の中では最も軽量な部類に入る。

日本刀は元来、「断ち切る」ことに適した刀剣である。
しかし、刀自体重量が軽いので切断する際手前にスライドさせて力の向きを切断物に対し直角からそらして加える必要がある。
同じ理由により、「斬る」ために刀を砥ぐ際は、包丁のように、スライドさせる方向に砥ぎをかける(剣の扱いに似ている)。
起源をさかのぼれば、古墳時代~奈良時代に、儀式用と実戦用とが区別され始めた時、「圭頭大刀(けいとうたち)」や「黒作大刀(くろづくりのたち)」は「断ち切る」専用だった。
平安時代に「小烏」などが「切っ先諸刃作り」を採用して「突き刺す」事にも適性を持っていたが、その後、太刀や打刀では、切っ先諸刃作りは排され、手首を利かせて「切る」ことに適するよう、湾曲している。
一部の武芸者は、切先三寸が両刃となった刀を使用したが、これは例外である。

戦場における日本刀

日本刀は、「武士の魂」、神器としての精神的、宗教的価値や美術的価値が重視される一方で、戦場ではそれほど活躍しなかったとする説がある。
その根拠としてよく上げられる理由を以下に列挙する。
この内の幾つかは、日本刀に限らず刀剣全般に当て嵌まる特徴である。

当時の記録において死傷原因に占める割合で刀傷が低い事。

刀剣の多くは接近戦専用で、広い空間では長柄武器(槍・薙刀など)に対して不利だったこと。

鎧や鎖帷子を着用した部位に対する斬撃が有効でないこと。

日本刀は刃の鋭さを保つ為、また軽量化のために刀身が薄く造られており、力を加える方向によってはすぐに曲がったり折れたりする。
また、多少の刃こぼれが威力に大きく影響するなど、主力武器としては耐久力に難点がある事。

製法に手間がかかる為、高品質の刀や、大型の野太刀を量産化・兵士に支給することは出来なかったこと。

草創期の武士は個人騎射を主戦術とし、鎌倉末期からは足軽など雑兵による集団槍兵が主戦術となったこと。

剣術が盛んになったのは、竹刀剣術が隆盛した平和な江戸時代になってからであったこと。

一方、これらの理由を否定する根拠としては以下が挙げられる
乱戦や狭い空間での闘いでは長柄武器に対して有利だったこと
数打ちと呼ばれる量産品が生産されて、雑兵にいたるまで普及していたこと。

鎧は打撃に若干弱い面があり、戦国期には刀を刃物付き鈍器として扱う戦い方もあったこと。
また鎧には必ず隙間が存在しそれを狙う戦法があったこと

鎧や鎖帷子は防刃に優れるが重く動き辛い。
刀の装備はこれらの着用を相手に強要する意味があること。
例えば鎧を着用しなくなった西南戦争時に抜刀隊が両軍で活躍している。

ことさら精神性を重視されるようになるのもまた江戸時代以降であり、当時は実用品としての意義が大きかったこと。

合戦に刀が使用された理由

予備の武器としての価値
武器は武人の蛮用により破損してしまう事が日常的にあり、予備の武器が必要である。
古今東西、人は丸腰になることを恐れる。

自衛用の武器としての価値
白兵戦を専門し、長柄武器を持つ兵は一部である。
それ以外の兵も自衛用の武器が必要とされ、主に刀を身につけていた。
たとえば弓,鉄砲,石つぶてといった投射兵種、荷駄や黒鍬といった支援兵種など。

長柄武器を使用しづらい状況での使用。

室内や山林など、長柄の武器の取り回しが悪い環境では刀に持ち替えて戦った。

槍の補助
日本の合戦は中世の弓や近世の鉄砲などといった遠距離兵器が主体であり、中距離での戦いは槍などで闘ったあと、短刀や鎧通しで頸動脈を切るための組み打ちで終結するため、日本刀は槍の補助として使われる事が多かった。

合戦で使用された刀の中には、峯などに刀などによる切り込み傷のある物が多く、至近戦になった場合に使用される事があったことを示している。
実際、名物石田正宗には、大きな切り込み傷が多数存在し、実戦で使用された事を窺わせている。

敵将の首級を挙げる
槍などの刀以外の武器では、戦場の真っ只中で迅速に首を切り落とすのは、非常に困難であり、合戦では自らの功績を示すものが敵将の首級であった為、重要であったとする説がある。

しかし、たとえ刀でも合戦の最中に鎧兜に身をかためた必死に迫って来る敵の首を一撃で断ち斬るのは事実上不可能である。
また通常、首級は敵の大将かそれに近い人物でなければ意味がなく、雑兵の首は首級にしなかった。
仮に、特別な訓令により無差別に首級を取る事が手柄とみなされる場合があったとしても、合戦の後に不正が発生しないように、皆の前で大将あるいは大将に任命された役人が敵の遺骸から公明に斬り分けたりした。

これらの事から、刀が重視された理由について、手柄を得るための首切りに便利だったからとする説にはやや無理があるといえる。
それに斃れた敵から首を切り取るには脇差の方が便利である。

日本刀の価値と役割

合戦に限らず、人間と人間が生命を賭けて闘うというのは極めて異常な事態であり、特別な覚悟が求められるのである。
そんな時に日本刀の「武士の魂」、神器としての精神的、宗教的価値や美術的価値がある意味現実的な力として求められたとしても不思議ではない。
戦乱の時代に作られた刀に所有者が信じる神仏の名や真言が彫り付けてある遺例が数多く存在する事も当時の武士達の赤裸々な心情を窺わせて興味深い。

工学的側面からは、金属の結晶の理論や相変化の理論が解明されていない時代において、刀工たちが連綿と工夫を重ね科学的にも優れた刃物の到達点を示しえたことに今も興味の眼差しが注がれている。
理論や言語にならない、見た目の変化、手触り、におい等のメタ情報を多く集積したり伝承したりすることで、ブラックボックス型の工学制御を実現しているためである。
現に我々は、細かく厳密な定義により人々の表情を読み取っているのではないが、高度な「気持ちを察する」能力が備わっており、特に日本人にこの能力が高いことから日本的なものづくりを工学システムとして捉える試みが近年萌芽してきている。

テレビ番組によるその検証
トリビアの泉
平成16年の夏頃に放送された実験結果。
テレビというメディアの性質上、過剰な演出が入っている可能性はある。
また対照実験を行っていない為、他の刀剣との比較はできない。

日本刀VS拳銃(コルト・ガバメント)
日本刀の刃に向けて、垂直に弾丸を撃ち込む実験。
いくら撃っても弾丸は両断され、全く刃こぼれしなかった。
この拳銃の弾丸の直径は11.43mmで重量は約15gあり弾速が約250m/sであることから、初活力が約500Jと算出される。
この弾丸が射手から見て左回転をしながら日本刀の刃に衝突するのにもかかわらず全く刃こぼれをしない事は、日本刀の切れ味の一つの証明としている。
これに対して、「鋼」vs「鉛」という素材の単なる物理的強度実験とする意見。
さらには、固定されている日本刀が強力な運動エネルギーを持っている弾丸に対して圧勝している、という運動量的観点からの再反論もある。

日本刀VSウォータージェット(水圧の刃)
日本刀の刃に向けて、垂直にウォータージェットを噴射する実験。
キズ一つ無く、無事に通過する。
同じ条件で実験された包丁は真っ二つになっていた。

日本刀VS機関銃(重機関銃12.7mm重機関銃M2)
日本刀の刃に向けて、垂直に重機関銃の12.7x99mm NATO弾を撃ち込む実験。
ここで使用された12.7mm重機関銃M2はもともと大口径の機関銃である。
現在でも装甲車等の装甲目標への攻撃や障害物を貫通させて敵を倒す目的に使われる。
その弾薬は拳銃弾やライフルよりはるかに大きく、比較にならない威力(この場合は刃への衝撃力および刃に与えられる捻り)だった、結果は、六発まで耐えたが、刀身が一気に削られ、真二つにちぎり折れる。
安全のため後ろに置かれていたコンクリートの壁はこなごなに壊れる。
弾頭素材、外皮が銅製(フルメタルジャケット)であったかどうかは不明。

たけし&マチャミの世界に誇る日本の技術に驚いてみませんか?SP
日本の俳優である藤岡弘、が超硬合金製の刀を用い、日本刀と切れ味を比較するために行われた車のドアを斬るという実験結果。
しかし、このドイツで開発された超硬合金製の刃物は圧縮応力には強いものの、引張り応力が発生すると破損することが金型では知られており日本刀は顕著な引張り応力が発生する構造なのでこの実験の信憑性を疑うものもいる。

通常の日本刀=6cm(刃が欠けて鞘に入らない位に曲がる)
超硬合金製の刀=22cm(キズや刃こぼれ一つ無し)
それを見た藤岡弘、は、この超硬合金製の刀を『リアル斬鉄剣』と名付けた。

怪しい伝説
「映画によくある、剣で剣を斬るというシーンは実際に可能なのか?」というコンセプトのもとに行われた実験。
大まかな内容は、同じ力で剣を振るための機械を自作し、その機械を使って剣を振り固定した別の剣に刃をぶつけるというもの。

日本刀をステンレス製の模造刀の側面にぶつける
模造刀はぶつけられた部分から折れた。

日本刀を日本刀の側面にぶつける
日本刀は大きくしなるだけで折れなかった。

日本刀の刃同士をぶつける
固定された方の日本刀はぶつけられた部分が少し曲がって刃が欠け、根本から折れた。
振られた方の日本刀の状態は不明。

日本刀をレイピアにぶつける
レイピアは大きくしなり、ぶつけられた部分から折れた。

クレイモアを日本刀の側面にぶつける
日本刀は大きくしなるだけで折れなかった。

なお、クレイモアやレイピアは炭素鋼を使用して作成されたレプリカである。

ナショナルジオグラフィック(国内は世界まる見え!テレビ特捜部で放送)
番組内で取り上げた海外番組"Fight Science"での検証(実験を行ったわけではない)。
日本刀が世界最強の武器であると結論している。
同番組では衝撃力、攻撃範囲、扱い易さの3つを兼ね揃えた武器が最強としており、扱いやすく威力の高い武器として刀剣類をあげている。
「剣は突き中心」「刀は斬撃中心」と両者の違いを説明した上で、刀でありながら突き攻撃でも引けをとらない、として日本刀が紹介された。
しかしこの番組では筋骨隆々な白人のITF系テコンドー家が振り回して紹介したり、日本刀の優位性について具体的な根拠や他の武器との比較が説明されず、イメージ優先の演出で信憑性に疑問を持つ意見もある。

[English Translation]