清楽 (Shingaku (Qing-era Chinese music))

清楽(しんがく)とは、清国から伝来した、民謡、俗曲を中心とする音楽群の名称である。
明楽とあわせて明清楽(みんしんがく)とも称される。
明楽は江戸時代の中期には衰退したため、明清楽と称しても、事実上、清楽だけを指すことも多い。

歴史

清楽の伝来は享保年間(1716年-1735年)である。
清の中国支配が始まり、清国との貿易で長崎には多くの清国商人が渡来し、彼らが清国の戯曲や民謡といった民間音楽を伝えた。
唐人屋敷に出入りを許された唐通事(中国語通訳)、地下役人や奉行所役人、さらに丸山の遊女等を介して普及した。
幕末までには、薩摩や琉球などを除く全国各地に広まった。
また江戸や大坂を中心に、清楽の歌詞と楽譜(工尺譜)を書いた清楽譜も盛んに刊行された。
現存最古の清楽譜は、天保3年(1831)ごろ刊行された亀齢軒斗遠(葛生斗遠)編『花月琴譜』である。

明清楽奏者の家元としては、平井連山(女性。明治19年5月に88歳で没)などが有名であった。
坂本龍馬(坂本竜馬)とその妻の「楢崎龍」も、清楽の月琴の名手であった。

清楽は江戸から明治にかけて大人気を博したが、日清戦争を境に急速に衰えた。
だが、日本の大衆音楽に残した影響は極めて大きい。
「かんかんのう(看々踊り)」や、「法界節(ほうかいぶし)」や「演歌」も、清楽から発展したものである。
ちなみに「かんかんのう」は江戸から明治にかけて流行した曲で、「法界節」は明治の自由民権の壮士たちが月琴を弾きながら唱った曲である。
また清楽のメロディーに乗せたさまざまな替え歌は、清楽そのものが衰退したあとも、昭和の初め頃まで歌い継がれていた。

特徴

同じ中国伝来の音楽でも、明楽は、宮廷音楽的、雅楽的要素が強かった。
これに対して清楽は、俗曲の色彩が強く、歌詞(中国語)の内容も市井に受け入れやすかった。
清楽の歌詞は中国語で、江戸時代の日本人は、南方の中国語の発音をカタカナで写し(当時、これを「唐音」と言った)、そのまま唱った。
現代の日本人が、ウクレレやギターを弾きつつ英語の歌を唄うように、江戸から明治にかけての日本人も、清楽の楽器(主として月琴)をかなでつつ唐音で中国語の歌詞を唄ったのである。

江戸時代の音楽文化は、概して、身分制や家元制に縛られた窮屈なものだった。
庶民の楽器であった三味線を武士が弾いたり、虚無僧の法器とされた尺八を百姓町人が吹くことは、江戸時代には許されなかった。
しかし中国伝来の現代音楽(当時として)であった清楽は、例外的に、江戸時代の身分制度から自由であった。
町人も武士も、男も女も、身分の上下や性別を超えて、いっしょになって合奏や合唱を楽しむことができた。

清楽の代表的な曲には、「算命曲」「九連環(右上の写真の楽譜参照)」「茉莉花 (民謡)」「四季」「紗窓」「売脚魚」「哈哈調」「満江紅」「将軍令」などがある。
これらの曲の多くは、現在の中国でも古典的な軽音楽としての生命を保っている(ただし歌詞の字句や編曲などは、日本の清楽のものとかなり違うことが多い)。

清楽で使う楽器は、月琴、唐琵琶、清笛、吶(チャルメラ)、三弦子、胡琴など各種の「擦絃楽器」、などであった(右の写真を参照)。
これらの楽器は、日本人のアマチュア愛好家でも、わりあい簡単に習得できた。
また清楽の旋律は歯切れがよくシンプルなものが多く、覚えるのも簡単だった。
演奏形式も自由で、同一の曲でも、月琴や胡琴だけの2~3名のアンサンブルや、あるいは月琴を弾き語りするソロなど、適宜、演奏形式を選ぶことができた。
明治以降は、清楽の曲を邦楽器や洋楽器でも演奏するようになった。
明治に刊行された明笛や尺八、手風琴(アコーディオン)、ハーモニカなどの教則本には、当時の日本の曲に混じって、「九連環」「算明曲」「茉莉花」なども収録されていることが多い。

現状

江戸から明治にかけて、日本でも、清楽の楽譜集の和刻本が多数、出版された。
また、清楽の演奏で使う中国楽器も、長崎経由で輸入されたり、日本で模倣して作られた。
そのため今日でも、古書店や骨董品店で、清楽の楽譜集(たいてい工尺譜で書かれている)や月琴などの楽器を、よく見かける。

現在の日本で清楽を演奏する団体としては、東京の明清音楽研究会、長崎市の長崎明清楽保存会、神奈川県横須賀市のよこすか龍馬会・月琴部などがある。
このほか、清楽の演奏を録音したレコードやCDなども若干ある。

[English Translation]