狂言 (Kyogen (farce played during a Noh play cycle))

狂言(きょうげん)は、能と同様に猿楽から発展した伝統芸能である。
猿楽の滑稽味を洗練させた笑劇。
明治時代以降は、能・式三番と併せて能楽と呼ぶことがある。

語源

狂言は、道理に合わない物言いや飾り立てた言葉を意味する仏教用語の「狂言綺語」(きょうげんきぎょ)に由来する。
この語は主に小説や詩などを批評する際に用いられた(例願以今生世俗文字業狂言綺語之誤 翻為当来世々讃仏乗之因転法輪之縁 白楽天)。
この語が猿楽の滑稽な物まね芸を指す言葉として転用された。
やがて上述の諸芸能の名称として定着した。
一般名詞としても、滑稽な振る舞いや、冗談や嘘、人をだます意図を持って仕組まれた行いなどを指して狂言と言うようになった。

能は面(仮面。おもてと読む)を使用する音楽劇である。
舞踊的要素が強く抽象的・象徴的表現が目立つ。
またその内容は悲劇的なものが多い。
これに対し狂言は、一部の例外的役柄を除いて面を使用しない。
猿楽の持っていた物まね・道化的な要素を発展させたものであり、せりふも含め写実的表現が目立つ。
内容は風刺や失敗談など滑稽さのあるものを主に扱う。

狂言の役柄

狂言で主役を務める者は能と同様にシテという。
脇役を務める者はアドといい、能のワキとは異なる呼称となっている。
アドが複数登場する場合は、一のアド、二のアドと称したりする。
代表的な者のみをアド、それ以外を次アドまたはオモ(大蔵流の場合)、小アド(こあど。和泉流の場合)などと称したりする。
集団で登場する場合は立衆(たちしゅう)という。
立衆を統率する者を特に立頭(たちがしら)と呼ぶ。
一応こういう区別は存するが、実際には主(しゅう)、太郎冠者(たろうかじゃ)、すっぱ、亭主等、その曲その曲の役名で呼ばれることの方が多い。

狂言の分類

狂言は大きく以下の3種類に分類される。

別狂言

能「翁」の一部をなす三番叟(さんばそう。大蔵流では「三番三」と書く)と、その特別演出である風流(ふりゅう)をいう。

本狂言

一曲として独立して演じられるもの。
通常、狂言という場合はこれをさす。

間狂言(あいきょうげん)

単に間(あい)とも。
能の一部として演じられるものをいう。

本狂言はさらに下位分類されることもある。
時代や流儀によっても相違があり一定していないが、大蔵虎寛本(1792年成立)の分類を代表として挙げておく。
(これは主役の類型による分類をめざしているように見える。)
(しかし類型把握もおおざっぱすぎるという評もある。)
(また「脇狂言」という番組順の分類名もふくまれており、不統一であるというそしりはまぬかれない。)

脇狂言

めでたさ本位の曲。
「末広がり」「福の神 (狂言)」「三人夫」「宝の槌」「鍋八撥」など。

大名狂言

主従もののうち、大名がシテを勤めるもの。
「萩大名」「武悪」「靫猿」「今参」「粟田口」など。

小名狂言(しょうみょうきょうげん)

主従もののうち、太郎冠者がシテを勤めるもの。
「栗焼」「止動方角」「附子」「棒縛」「鐘の音」「金藤左衛門」など。

聟女狂言

聟入りもののように聟がシテを勤めるもの、及び女性の登場するもの。
「二人袴」「八幡前」「比丘貞」「右近左近」「千切木」「寝音曲」など。

鬼山伏狂言

閻魔大王や鬼の類がシテを勤めるもの(人が鬼に化ける話もこれに含まれる)。
及び山伏がシテを勤めるもの。
「朝比奈 (狂言)」「八尾 (狂言)」「清水 (狂言)」「梟 (狂言)」「柿山伏」など。

出家座頭狂言

僧や新発意、座頭がシテを勤めるもの。
「布施無経」「呂連」「薩摩守」「伯養」「猿座頭」「丼礑」など。

集狂言(あつめきょうげん)

上記の分類に収まらないもの。
「瓜盗人」「茶壷」「膏薬練」「釣狐」「合柿」など。

流派

江戸時代に家元制度を取っていた流派としては、大蔵流、和泉流、鷺流の三つの流派が存した。
現在能楽協会に所属する流派として存続しているのは大蔵流と和泉流だけである。
その他に、室町後期~江戸初期には南都禰宜流という神人(じんにん。じにん)を中心とした流派が存していたことが知られている。
神人とは神社に属して芸能その他卑賤の仕事に従事した者の称。
かつて猿楽が有力寺社に属していた名残とも言える存在である。
室町時代には盛んに活動していたことが諸記録によって窺われる。
しかし江戸時代に入ると急速に衰えた。
江戸初期には既存の流派(大蔵流など)に吸収されて消滅したと言われている。
その他にも無名の群小諸派が存在したようで、流派としては既に滅んでしまった。
しかし一部の台本は『狂言記』『続狂言記』『狂言記拾遺』『狂言記外編』という一般読者向けの読み物となって江戸時代に出版され、世に残った。

大蔵流

猿楽の本流たる大和猿楽系の狂言を伝える唯一の流派。
代々金春流で狂言を勤めた大蔵弥右衛門家が室町後期に創流した。
江戸時代には鷺流とともに幕府御用を勤めた。
しかし狂言方としての序列は2位と、鷺流の後塵を拝した。
宗家は大蔵弥右衛門家。
分家に大蔵八右衛門家(分家筆頭。幕府序列3位)、大蔵弥太夫家、大蔵弥惣右衛門家があった。
大蔵長太夫家や京都の茂山千五郎家、茂山忠三郎家をはじめとして弟子家も多かった。
観世流以外の諸座の狂言のほとんどは大蔵流が勤めていた。

明治維新に伴い、職分の廃業や宗家の断絶などが相次ぎ、一時衰微した。
しかし東京では初世・山本東次郎(則正。隠居名:東あずま)が大蔵流の孤塁を死守した。
京都では「お豆腐主義」を標榜する茂山千五郎家の正虎(9世千五郎。初世千作)、正重(10世千五郎、2世千作)が庶民的な狂言を演じた。
このように東西で流派を支えた。
昭和16年(1941年)には茂山千五郎家の分家の二世茂山忠三郎(良豊)の養子であった茂山久治(後の善竹彌五郎。狂言界初の人間国宝)の次男・吉二郎が大蔵家に婿入りした。
二十四世大蔵弥太郎(のち大蔵弥右衛門)として宗家を継ぎ、宗家は再興された。

現在大蔵流には山本東次郎家(東京を本拠)、大藏弥太郎家(宗家。東京を本拠)、茂山千五郎家(京都を本拠)、茂山忠三郎家(京都を本拠)、善竹忠一郎一門(大阪・神戸を本拠)、善竹十郎家(東京を本拠)がある。
台本は江戸の大蔵宗家の芸系を受け継ぐ山本東次郎家のものと、江戸時代以来京都を本拠としてきた茂山千五郎家のものとに大別される。
両者は芸風も対照的である。
山本東次郎家が武家式楽の伝統を今に残す古風で剛直な芸風なのに対して、茂山千五郎家は写実的で親しみやすい芸風である。

過去に大蔵流から人間国宝に認定されたのは善竹弥五郎(茂山久治)、3世・茂山千作(真一。11世・茂山千五郎)、4世・茂山千作(七五三しめ。12世・茂山千五郎。現役)の3人。

現在活躍している家

大蔵彌右衛門家

家伝によれば、大蔵流は14世紀に後醍醐天皇の侍講を勤めていた比叡山の学僧・玄恵法印を流祖とする。
玄恵は戦争の打ち続く不安定な時代において、立派な人格の養成と人としての生きる道を説くために狂言を創始したという。
その狂言は坂本在住で近江猿楽の猿楽師であった2世・日吉彌兵衛に伝えられ、3世・彌太郎、4世・彌次兵衛、5世・彌右衛門と受け継がれた。

6世・彌太郎の代には大和猿楽金春座に属した。
7世・彌右衛門の後に世阿弥の外孫にあたる8世・金春四郎次郎が芸系を受け継いだ。
四郎次郎の死後、吉野猿楽出身の日吉万五郎が一時家を継いだが、最終的には養子の宇治彌太郎が9世を継いだ。、
10世・彌右衛門の代に「大蔵」と姓を改めた。
11世・彌右衛門は織田信長より虎の字を拝領し虎政と名乗った。
その子12世・彌右衛門は虎清と名乗り豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。
13世・彌右衛門虎明(とらあきら)は万治3年(1660年)大蔵流最古の狂言伝書『わらんべ草』を著わした。
元禄7年(1694年)になると5代将軍徳川綱吉の上意により江戸屋敷を拝領し、それまでの奈良住まいから江戸住まいとなった。

その後も22世・彌太郎虎年まで代々幕府の俸禄を受け、最古の伝統を持つ大蔵流の宗家として狂言を着々と守り続けてきた。
しかし明治維新により大きな打撃を受ける。
徳川幕府や諸大名のお抱えとして、長年にわたり手厚い庇護を受けていた大蔵流の狂言師たちはみな俸禄を失い、転業・転職を余儀なくされた。
宗家もその例外ではなかった。
明治維新後奈良に移住していた虎年が明治14年(1881年)に41歳で死去すると、跡を継いだ23世・虎一はわずか2年で能楽界を去った。
その結果大蔵宗家は断絶するに至った。
さらに太平洋戦争の終戦後も復興を待つまでの間、長い暗黒の時代が続くことになった。

しかしその間も山本東次郎や茂山千五郎といった大蔵流の狂言師たちは己の芸を磨き、後世に大蔵流の狂言を伝えていった。
そして昭和16年(1941年)、善竹彌五郎(当時・茂山久治)の次男・吉二が虎年の娘の外孫にあたる安と結婚し、24世彌太郎(のち彌右衛門)を名乗り、宗家を再興した。
現在大蔵家では24世の長男で宗家25世を継いだ大蔵彌太郎(基嗣)と弟の吉次郎(基義)、そして彼らの子である大蔵千太郎(25世の長男)・大蔵基誠(25世の次男)、大蔵教義(吉次郎の長男)の五人が大蔵の名を名乗り東京を中心に活躍している。

茂山千五郎家

茂山忠三郎家

善竹一門

山本東次郎家

和泉流

和泉流は、江戸極初期に京都の手猿楽師(てさるがくし。素人出身の職業狂言師)として禁裏御用を勤めつつ、尾張藩主徳川義直に召し抱えられていた7世山脇和泉守元宜が、同輩の三宅藤九郎家、野村又三郎家を傘下に収めて創流した。
宗家は山脇和泉家。
もっとも、一応家元制度を取っていたとは言え、三派合同で流儀を形成したという過去の経緯もあって、近世を通じて家元の力は弱かった。
とりわけ三宅藤九郎家と野村又三郎家は独自の六義(りくぎ。和泉流における狂言台本の称)を持てるという特権を有するなど、一定の独自性を保っていた。
元禄9年(1696年)に家元が名古屋に移住してからは名古屋を本拠とした。
その後も禁裏御用は相変わらず勤めてはいた。
しかし、四座に属し幕府御用を勤めていた鷺・大蔵二流に比べれば、明治以前の和泉流は名古屋(宗家、野村又三郎家)・京都・金沢(三宅藤九郎家)を中心として活動する地方流儀に過ぎなかった。

しかるに、明治維新によって立場は逆転。
禁裏御用を勤めていた縁により、家元をはじめとする職分の多くが東京に移住した。
幕府側であった鷺・大蔵二流が相次いで没落するのを尻目に、和泉流ひとりが東京の狂言界を席巻した。
ところが、時の家元・16世山脇元清は流派を統率する力に欠けた。
息子の17世元照も大正5年(1916年)に早世。
婿養子になった18世元康は狂言の経験がなく、弟子たちとも早々に衝突して追放された。
こうして宗家は中絶した。

これらの内紛により廃業した職分は少なくなかったが、その中でひとり気を吐いていたのは5世・野村万造(隠居名・萬斎)であった。
万造は加賀藩のお抱え狂言師であった三宅藤九郎家の弟子家の出身であった。
明治維新後は東京に移住して精力的に活動していた。
子供にも恵まれた。
長男の6世万蔵と、次男で断絶していた師家を再興した9世三宅藤九郎が父を支えた。
そして昭和15年(1940年)には、9世三宅藤九郎の長男・三宅保之(当時6歳)が16世宗家山脇元清の娘の養子になって、19世宗家山脇元秀となった。
そして中絶していた宗家も再興された。
後に元秀は流派の名前を取って姓を山脇から和泉に改めた。
しかし、実弟の三宅右近(9世三宅藤九郎の次男)に対して破門騒ぎを起こしたり、周囲の反対を押し切って長女・淳子と次女・祥子を狂言師とした上、祥子に10世・三宅藤九郎を継がせたりと、独断専横が目立ち、とかく問題の多い人物であった。
1995年に元秀が死去すると、長男・和泉元彌が流内の同意を得ることなく一方的に20世宗家を宣言。
加えて芸力の不足や度重なるトラブルとスキャンダルを引きおこしたこともあって、2002年、能楽協会からは退会命令(「除名」の次に重い処分であるが、復帰の可能性は残されている)の処分を受けた。
また流内職分から宗家相続無効を主張された。
元彌は裁判で争ったが、最高裁は、「原告は宗家と認められていない」と指摘、「退会命令も適法」と判断。
元彌の能楽協会退会が確定した(和泉元彌の項参照)。
1995年以後、和泉流は宗家を定めておらず、現在、職分会の委嘱を受けて流派の長老である12世・野村又三郎が宗家預かりとなっている。

現在和泉流は、野村又三郎家(名古屋を本拠。いわゆる野村派)、野村万蔵家・万作家・三宅右近家(東京を本拠。いわゆる三宅派)、狂言共同社(名古屋を本拠。いわゆる名古屋派)に大別される。
台本もそれぞれ異なる。
芸風は江戸時代においては上方系の写実性に富んだものであったようである。
しかし近代に入り東京に進出してからは東京風のスマートで洗練された芸風に変化した。

過去に和泉流から人間国宝に認定されたのは6世・野村万蔵、9世・三宅藤九郎、初世・野村萬(7世・野村万蔵。現役)、野村万作(現役)の4人。

鷺流

鷺流は徳川家康のお抱え狂言師となった鷺仁右衛門宗玄(1560生-1650没)が一代で築き上げた流派である。
宗玄は、もとは山城猿楽系の長命座に属していたが、長命座が金剛流に吸収されてからは宝生流に移った。
1614年に家康の命令で観世流の座付となったのを機に一流をなした。
家康に寵愛され、大蔵流を差し置いて幕府狂言方筆頭となった。
以降は、江戸時代を通じて狂言界に重きをなした。
芸風は当世風で写実的、悪く言えば派手で泥臭く卑俗なものであったらしい。
宗家は鷺仁右衛門家、分家に鷺伝右衛門家(幕府狂言方序列4位)、弟子家に名女川家などがあった。
宗家をはじめとしてほとんどの職分が観世座に属していた。

この観世座というマンモス座に頼り切った脆弱な構造が災いした。
明治維新を迎えるや、鷺流は混乱の極みに達した。
時の家元であった19世・鷺権之丞は変人と評されるほどの人物でとても流派を統率する力はなかった。
困窮した職分は大挙して吾妻能狂言(能楽と歌舞伎の折衷演劇。明治14年頃に消滅)に参加、失敗に終わった。
その後も歌舞伎役者に家芸を伝えたとして能楽界への復帰は許されなかった。
明治28年(1895年)に鷺権之丞が没して宗家は断絶した。
大正11年(1922年)に最後の鷺流狂言師であった鷺畔翁(晩年は鷺流宗家を自称した)の死去により、能楽協会に所属する流派として廃絶するに至った。

なお、鷺流の狂言自体は山口県山口市(伝右衛門派、県指定無形文化財)、新潟県佐渡市(仁右衛門派、県指定文化財)、佐賀県神埼市千代田町高志(たかし)地区(高志狂言という名称で県指定無形民俗文化財として)などに残っている。
国立能楽堂などで上演されたこともある。
また、鷺畔翁をはじめ能楽界を追放された鷺流狂言師たちは歌舞伎界に接近した。
「松羽目物」と言われる能楽写しの舞踊劇の演出に多大な影響を与えた。
その意味では、鷺流の歌舞伎界に与えた影響は決して小さなものではない。

[English Translation]