石鼓文 (Sekkobun)

石鼓文(せっこぶん)とは、唐初期に陝西省鳳翔府天興県で出土した10基の花崗岩の石碑、またはそれに刻まれた文字をいう。
現存する中国の石刻文字資料としては最古のもので、出土した当時から珍重され、現在は北京市故宮博物院に展示されている。

通称の「石鼓文」は、詩人の韋応物や韓愈がこの石碑を称えて「石鼓歌」を編んで広まった。

狩猟を描写した詩が刻まれており、当時の狩猟をはじめとする王の暮らしがわかる文献資料 (歴史学)の一つに位置づけられる。
字体は始皇帝の文字統一以前に用いられた「大篆」の例として書家に愛好され、呉昌碩の臨書など作品のモデルとなっている。

また、戦乱のたびに亡失と再発見を繰り返し、亡失のたびに破壊されており、再発見のたびに判読できる字数がチェックされ、戦乱による被害状況も克明に表されている。

その一部が、岩波書店刊行の『漱石全集』の装丁に用いられた。

石鼓の成立時代
出土当時より、石鼓がいつ刻まれたのか議論は尽きなかった。
現在のところ戦国時代 (中国)の秦で作られたとする説が有力である。

唐初期に出土した際は、狩猟を描写した詩歌が周の宣王 (周)を称える詩経の「車攻」や「吉日」の詩と酷似していることから、周の宣王時代の作と考えられた。
この説は長く支持され、清の乾隆帝もこれを認めたため、反論は辛亥革命後に噴出した。

記録によると、宣王は出土地の近辺で狩をした形跡がない。

石鼓に歌われた「朱塗りの弓」や「3頭曳きの馬車」は諸侯が使うもので、宣王にはふさわしくない。

そもそも宣王の時代には、花崗岩を刻める鉄の鏨は存在しない。

これらの反論を受けて、宣王時代説はほぼ否定されている。
始皇帝の文字統一によって絶滅した古い書体であることから、始皇帝以後の偽作であるとも考えられない。

現在の論点は、統一前の秦のどの時代に作られたか、に絞られており、襄公 (秦)・文公 (秦)・穆公 (秦)のいずれかが有力視されており、献公 (秦)の紀元前374年頃の巡狩の際の詩文とも考えられている。

石鼓の保存と破損
石鼓は伝世の石碑ではなく出土品であるため、出土した時から破損が見られた。
一方で宣王の碑と流布されたことから珍重される時期もあり、採拓も頻繁に行われている。
また石そのものは1トン前後と軽量なため略奪されたこともあり、保存と破壊を繰り返してきた。

出土直後は雨ざらしの状態で、保存措置がとられていなかった。
韋応物の「石鼓歌」にも「風雨欠剥苔蘚渋(風雨に削られ苔に蒸す)」の描写がある。
韓愈は大学に移転保存するよう進言したが、実現しなかった。

西暦800年頃、鄭餘慶が鳳翔孔子廟に移転させ、ようやく保存が始まる。
五代十国時代に至る100年ほど、この地で保存された。

宋 (王朝)朝が成立し、司馬池(司馬光の父)が鳳翔の知事に就任し、散逸した石鼓文を集め、府学に移転保存した。
しかし移転時に1基が行方不明になった。

消息不明だった1基(詩文冒頭から「作原鼓」と呼ばれる)が1052年に民家で発見された。
しかし上半分を切り捨てられ、中身をえぐられて石臼になっており、詩文の上半分が完全に失われた。
以後、字数計上などの保護策が厳重になる。
欧陽脩の調査では465字が認められた。

芸術に傾倒した徽宗の勅命により、石鼓はすべて開封に運ばれた。
採拓による磨耗を防ぐことと宝物の品格を持たせるため、刻字すべてに金象嵌を施した。
当初は大学、のちに保和殿に保管した。

保和殿の宝物として保存し、金象嵌を施したことが仇となり、靖康の変の際に略奪された。
金象嵌をえぐり取られたため、残字数が最も少なかった石鼓(「馬薦鼓」と称される)の文字はすべて破壊された。

元 (王朝)朝が成立すると国子監に保存し、明朝も同様に扱った。
元の吾丘衍は477字、潘迪は386字を読み取っているが、以後も徐々に風化が進んでいる。

清朝も同様に保護したが、乾隆帝はさらに採拓用のレプリカを作り、石鼓を完全保護する策を取った。

中華民国でも故宮に保管したが、満州事変勃発に合わせて上海に退避させた。
1936に南京に退避したが、日中戦争とともに宝鶏・漢中・成都・峨嵋へと中国奥地に移転した。

1947年に南京に移転したものの、国共内戦が勃発した。
中国国民党は石鼓の台北輸送を断念して逃亡し、石鼓は無傷で中国共産党の手に渡った。
そこで北京故宮に帰り、現在に至る。

このように破損を繰り返してきたため、故宮に展示された石鼓の刻字は不完全で、失われた字は宋時代に採られた拓本で見ることができる。
作原鼓の上半分が破壊される前の唐拓は発見されていない。

拓本
原石が破損しているため、特に靖康の変以前に作られた宋拓本は文字資料として貴重である。

范氏天一閣本:北宋時代の拓本で462字あり、古くより公開されているため、のちの刻本やレプリカのモデルになっている。
1860年、内乱の際に亡失。

先鋒本:最古の拓本とされ、480字が読み取れる。
東京・三井文庫所蔵

中権本:不明瞭ながら500字が読み取れる最多字数の拓本で、法書としてこの拓本がよく取り上げられる。
東京・三井文庫所蔵

後勁本:先鋒本・中権本とともに明時代の金石家だった安国のコレクションで、497字が読め、法書としてよく供される。
東京・三井文庫所蔵

10基の石鼓
石鼓は10基で1セットであるが、無造作に発掘されたために順序は明確ではなく、詩歌の解釈を通して現在の並びが妥当と判断されている。

吾車鼓(6字11行・19句)「吾車既工」に始まり、狩の序盤を描写した詩がつづられる。
この1句目が詩経と酷似することから、宣王説が生じた。

シ幵医殳鼓(7字9行・7句)「シ幵医殳・・」で始まり、土地の豊かさを称えた詩がつづられている。
医殳字は秦固有の字のため、宣王説打破の根拠となった。

田車鼓(7字10行・18句)「田車孔安」で始まり、狩の情景を描写した詩がつづられる。
拓本でもやや破損があり、3句は解読不能となっている。

鑾車鼓(7字10行・18句)「□□鑾車」で始まり、全行の冒頭2字が欠けているため6句しか解読されていないが、狩が終わって喜ぶ情景をつづっている。

霊雨鼓(6字11行・18句)冒頭は破損して第2句の「霊雨□□」で称される。
半数強の10句が解読され、雨の中を帰る人々の姿がつづられる。

作原鼓(7字11行・句数不明)石臼に転用された鼓で、詩は解読不能。
破損を免れた1行下段の「□作原作」が通称の由来となっている。

而師鼓(6字11行・17句)半数の字が満遍なく破損しており、詩は解読不能。
3行目末尾の「而師」が通称の由来となっている。

馬薦鼓(5字8行・句数不明)靖康の変で字を失った鼓で、宋拓でも20字に満たず、詩の解釈は当初から断念されている。

吾水鼓(5字15行・20句)冒頭「吾水既瀞」に由来する。
残字は多いが磨耗が激しく、傷と点画の区別が難しい字が多くを占める。
詩の解読は7句にとどまる。

呉人鼓(8字9行・句数不明)冒頭「呉人憐亟」に由来する。
呉人(野守)が自然に感謝する描写と思われることから、一連の石鼓の掉尾に置かれることが多い。

[English Translation]