織部流 (Oribe School (Tea Ceremony))

織部流(おりべりゅう)は茶道流派の一つ。
古田重然の創始による流儀で、侘茶法と式正茶法の両伝があると織部流十七世を称した浅野牧仙が提唱した。
式正茶法は秋元瑞阿弥が体系化し、式正織部流(しきせい おりべりゅう)と称して千葉県市川市国府台の織部桔梗会が教授にあたっており、千葉県指定文化財一覧に指定されている。

特徴
織部の茶は「織部百ヶ条」にみられるように、利休の茶を遵守したものだったが、現代では大きく二つにわかれている。
侘茶法は千利休ゆずりの草庵の茶といい、これに対して式正茶法は書院および広間の茶で、室町以来の書院茶に武家の礼儀作法と侘茶の精神とを取り入れた秋元瑞阿弥独自の流儀である。
式正茶法の特色として、畳の上に直接道具を置くことがなく、「茶碗台」というものが考案され、居前で手を清めたり、帛紗を使い分けるなど清潔を旨としていることが挙げられる。
太閤点、六天目点など、面白い点前があることが特徴である。

歴史
流祖の古田織部は美濃の古田重定の子で、字は左介、諱を重然といい、伯父重安の養子となり、中川清秀の妹を娶った。
武将として織田信長・豊臣秀吉に仕え、茶人としては千利休に学び利休七哲の一人に数えられる。
利休切腹の後に、徳川2代将軍徳川秀忠の茶湯の師範を勤め、小堀政一をはじめとする諸大名にも茶の湯を伝授した。
作意趣向を凝らしたことで知られ、造園、建築、諸道具から料理に至るまで「織部好み」と呼ばれるものが伝わっている。
元和 (日本)元年(1615年)、大坂夏の陣で茶堂木村宗喜が豊臣方に内通したため、嫡男とともに自刃させられた。
遺骸は大徳寺三玄院に葬られた。

さて織部の養父重安には後に実子重続が生まれたので、織部は娘を妻の実家中川家の養女として義弟である重続に嫁がせていた。
重続の一族は織部の罪が及ぶべき所を特に赦されて、豊後岡藩中川家の家老として存続した。
しかし、織部の茶法は特に伝わらなかった。
14世淵黙(広計)は福岡藩に伝わっていた織部流を習い、自家の茶法としたため、古田家に伝えられることになった。
そして14世古田宗関(重名)は維新に際して豊後から東京へ移り、明治31年(1898年)に茶道温知会を起こして弟子に織部流を教授した。
宗関の高弟に岡崎淵冲と原宗改(鉄石)がいた。
宗改は正式織部本流を立ち上げ、秋元瑞阿弥にそれを伝授した。
瑞阿弥は16世を称し、千葉県指定無形文化財保持者に認定された。
瑞阿弥は京都興聖寺の住職浅野牧仙に式正茶法を伝え、以後、同寺の住職が世襲することになったため、茶法が伝わりづらくなった。

一方、国府台の織部桔梗会では、瑞阿弥没後も引き続き式正茶法を教授している。
ほかに織部流を称す流派に扶桑派があり、明治時代に日種譲山とともに京都興聖寺を復興させた表千家の見中斎米山により創始されたもので、やはり式正茶法を伝えている。
北九州にも織部流(石橋家)が伝わっており、貴重なものである。

歴代

[English Translation]