表千家 (Omote-senke)

表千家(おもてせんけ)は、茶道流派の一つ。
千利休を祖とする千家の本家にあたり、裏千家・武者小路千家と共に三千家と呼ばれる。
正確な門弟数は不明であるが、裏千家の半数程度であると思われる。

現在の家元は、千利休から数えて、14代目の而妙斎(じみょうさい)千宗左(せんそうさ)家元である。
代々の家元は紀州藩主である紀州徳川家(徳川御三家)の茶頭として格式を誇り、紀州徳川家と強いつながりがあった三井家とも縁があった。
(後述)

宗家は京都市上京区寺之内堀川通東入にある。
表千家という名は、表千家を象徴する茶室不審菴(ふしんあん)が裏千家の今日庵に比して通りの表にあることに由来する。
現在不審菴は財団法人不審菴が管理している。

歴史

成立
茶の湯の大成者である千利休(せんのりきゅう)の没後、千家は2代・千少庵(せんしょうあん)、3代・千宗旦(せんそうたん)と続いた。
3代宗旦の三男である千宗左は、宗旦の隠居に伴い継嗣として不審菴を継承した。
宗左は千家の直系を継いだわけであるが、宗旦は屋敷の裏に今日庵を建てて隠居所とした。
宗旦の死後、今日庵を四男の千宗室が受け継いで独立し、裏千家となった。
また次男の千宗守が養子先から出戻ってきて別に一家を起こし武者小路千家となった。
こうして表・裏・武者小路の三千家が成立した。

4代江岑宗左は、寛永19年(1642年)、茶の湯に造詣の深かった紀州藩初代藩主徳川頼宣の招きで紀州徳川家に仕えた。
以後明治に至るまで表千家の歴代家元は紀州徳川家の茶頭として仕え、中級武士並の二百石の禄を受けた。
また江岑は新院後西天皇より宸翰を拝領したり、東福門院より御作の香合を拝領したりと、御所や公卿らとの交流も深かった。

紀州徳川家の歴代藩主の中には茶の湯に興味をもつ者も少なくなく、6代覚々斎の時には紀州藩4代藩主から8代征夷大将軍となった徳川吉宗からは茶碗(桑原茶碗)を拝領した。
後の9代了々斎の時には「数寄の殿様」と呼ばれ風雅を愛した徳川治宝の庇護を受けた。
治宝は利休茶道の皆伝を受けるほど茶道に通じており、了々斎の晩年には治宝を家元とし茶事を催していた。
それゆえ、治宝は幼くして了々斎の跡を継いだ10代吸江斎に了々斎から預かっていた皆伝を授ける形となった。
現在の表千家表門は、治宝の不審庵への御成りにあたり紀州徳川家が建てたものである。
ちなみに紀州で表千家の茶道は藩主から庶民にまで広がり、現在でも表千家の茶道が盛んである。
このように表千家は紀州徳川家から格別の待遇を受けていた。
現在でも、和歌山城下の和歌山市三木町堀詰橋南側には、「紀州藩表千家屋敷跡」の碑が建っており、往時を偲ばせる。

元禄から化政にかけて
江戸期に表千家が果した役割として茶道史上特筆すべきは、6代覚々斎以降の、町方への普及である。
元禄期を頂点とする江戸中期は経済の実権を町人が握り、千家は例えば三井家の当主八郎右衛門など富裕町人を大量に門弟として受け入れた。
これにより、(1)従来の指導方法・組織では対応できなくなり新たな指導方法・組織が生み出され、(2)町人文化の影響を受けて新たな茶風へと変容した。
特に7代如心斎は、実弟である裏千家8代一燈宗室や、高弟である川上不白らと共に時代に即した茶風を創り出した家元として名高く千家中興と称される。

(1)の新たな組織というのが、現在の芸事一般に見られる家元制度である。
家元たる千家当主は直属の門弟に稽古をつけてその分の教授料を取る。
直属の門弟は自分の弟子に教えて教授料を取りその一部を家元に上納する。
直門の門弟の弟子の弟子は更に自分の弟子に・・・、というもので、家元を頂点としたピラミッド型組織である。
また家元は原則として表千家許状(ゆるしじょう・おゆるし)の発行権を独占しており、中間の師匠は自分より上位の師匠、さらに家元へと許状の発行申請を取次ぎ、御礼(申請のための費用)も上納する義務がある。
これによって家元を権威付け、分派独立を防ぐと同時に組織の経済的基盤を確立することができたといえる。

また同じく(1)の新たな指導方法としては、七事式が制定されたことが挙げられる。
基本的に五人一組となって各人それぞれ役割が割り当てられ、五人が一度に稽古できるというものである。
遊戯性があり大流行した。
そのために花月楼とよばれる八畳敷きに一間床の広間が好まれ、江戸をはじめ各地に写しの茶室が造られた。

(2)の新たな茶風は、端的に言えば、自由闊達な気風が吹き込まれたことである。
茶室は利休・千宗旦のような極小茶室はもはや顧みられなくなり、むしろそれは改築・拡張されていった。
茶道具もそれまでの侘びた目に立たないものから、例えば華やかな蒔絵の棗など、これ以降現代に時代を下れば下るほど派手で、目立つものになってゆく。

この7代如心斎らが行った組織改革は後世に千家流茶道を伝える基盤整備である一方で、単なる指導方法の変更のみならず、小規模空間で小人数をもてなすわび茶の世界を大きく変えていくことになる。
これをもって茶道の堕落を招いたと批判する向きもあった。

8代啐啄斎のとき天明8年(1788年)の大火により、表裏両千家は伝来の道具のみを残して数々の茶室はすべて焼失してしまった。
しかし翌年までに速やかに再建されて、利休居士二百回忌の茶事を盛大に催している。
こうした復興が可能だったのも如心斎らによる家元制度の整備によるところが大きいと考えられる。

ちなみに三井家は紀州藩領であった伊勢国松阪市が一族のルーツであり、それが縁で紀州徳川家とは強いつながりがあった。
三井家の惣領の家柄である三井北家6代三井高祐が紀州和歌山城下(西浜御殿)に招かれた際には、高祐が手造りした茶碗に治宝が亀の絵を描くなどしている。
治宝や斉順が下賜した茶道具類が現在三井家には多数伝わっている。

明治以後
明治時代になると、茶道は旧時代の遺物として全く顧みられなくなり、かつ、紀州藩の手厚い庇護もなくなり、茶道・家元制度ともに存亡の危機に立たされた。
この時、家元制度をとらずに特定の藩組織の中でのみ普及していた流派は消滅した(近年、雨後の筍のように復興している)。
表千家も危機的状況にあったものの、家元制度をとっていたこと、そしてなにより三井家という強力なパトロンを擁していたことにより、裏千家のような辛酸は舐めずにすんだ。

11代碌々斎は明治維新の苦境をしのいだが、家元を12代惺斎に譲った後の明治39年(1906年)に、失火により家元建物をほぼ全焼している。
わずか1年で復興した天明の大火に比べると、再建に大正2年(1911年)までかかったことは、いかに茶道界に逆風が吹いていたかを示している。
しかしその後は再び茶道人口が増加し、大正10年に八畳敷の松風楼、昭和34年には八畳に十畳二間が続く新席が建て増されている。

第二次世界大戦後は茶道の発展というよりも、茶道組織として発展した時代である。
日本の高度経済成長とともに茶道人口も爆発的に増加したが、真っ先に大衆化路線を推し進めた裏千家が増加した茶道人口の大部分を占め、表千家はその後塵を拝する形となった。
表千家は4代江岑が宗旦から家督を継いでいるので千家の宗家(本家)であるが、今日では裏千家に「三千家に上下の区別はない」と憚りなく公言されるに至る。
裏千家淡交会のような横組織として昭和17年(昭和28年に再編成)に表千家同門会を設立するも、現在でも組織力という点では裏千家淡交会に遠く及ばない。
ただし組織として大きく発展することだけが茶道としての発展ではない。
表千家としてどう発展していくのかが、茶道史の上で今後問い直されるところである。

許状
「許状」は、稽古することを許可する趣旨の書面であり、実力認定の意味合いが強い「免状」「免許」「段位」などとは性格が異なる。
現在「乱飾」以降は家元伝授のみであり、市中で教授を受けることはできない。
また「真台子」の相伝は男性に限られ、女性に与えられる許状は「乱飾」までである。
資格はそれぞれ得るために必要な許状ということで記したが、許状があれば資格が得られるわけではない。

歴代家元
千利休の没後、傍系の少庵(後妻の連子)の後を継いだ千宗旦が京都に屋敷を構え、次男 宗守・三男 宗左・四男 宗室にそれぞれ武者小路千家・表千家・裏千家を興させたのが三千家の始まりであるが、各家ともに家元は利休を初代として数える。
表千家の家元は四代である江岑の諱「宗左」を受け継ぎ、家元後嗣(若宗匠)は「宗員」、隠居してからは元伯の諱「宗旦」を名乗る伝統である。

表千家歴代

その他

実際庵 - 養翠園(ようすいえん)にある表千家の茶室。
養翠園は紀州藩主徳川治宝が作った御殿(西浜御殿)で、邸内には9代家元了々斎の二畳台目の茶室が遺されている。

三木町棚(みきまちたな) - 和歌山市三木町にあった表千家の屋敷で4代江岑宗左が三種類の寄木(杉・檜・もみ)で作ったとされる棚。

久田家・堀内家 - 表千家の縁戚であり代々宗匠として表千家を支える茶家

[English Translation]