西陣織 (Nishijin Ori)

西陣織(にしじんおり)とは、京都の先染め織物をまとめた呼び名である。

西陣とは、応仁の乱時に西軍が、本陣を置いたことから、この名前がつけられた京都の地名。

ただ、西陣という行政区域は特別にはないが、この織物に携る業者がいる地区は、京都市街の北西部、おおよそ、上京区、北区 (京都市)の、南は今出川通、北は北大路通、東は堀川通、西は千本通に囲まれたあたりに多い。
応仁の乱を期に大きく発展したが、応仁の乱より昔の、5世紀末からこの伝統が伝えられている。

また、西陣、西陣織は「西陣織工業組合」の登録商標。

西陣織概略

応仁の乱の戦火を逃れて避難していた職人たちは、乱が終わると両軍の本陣の跡地である東陣・西陣に帰還し諸国で習い覚えた明などの新技術も加えて京織物を再興した。

西陣で織物生産を営んでいた秦氏ゆかりの綾織物職人集団を「大舎人座」という。
彼らは、東陣の「白雲村」の練貫職人集団と京都での営業権を争ったが、永正十年(1513年)の下知によって京都での絹織物の生産を独占、天文十七年(1548年)に「大舎人座」の職人のうち31人が足利家の官となり「西陣」ブランドが確立された。

「西陣」の織物は富裕町人の圧倒的な支持を受け元禄~享保年間に最盛期を迎える。
このころ西陣織の二大技法である紋織りと綴れ織りの基礎技法が確立した。

明治五年にはフランスのリヨンに職人の井上伊兵衛と佐倉常七を派遣してジャカード織機を導入、3年後には荒木小平が国産のジャカードを誕生させた。
その結果、空引機(高機)では出来なかった幾多の織物を産み出し量産を可能にした。
現在も西陣は日本の織物の最高峰を占めている。

現在、「綴」「経錦」「緯錦」「緞子」「朱珍」「紹巴」「風通」「捩り織」「本しぼ織」「ビロード」「絣織」「紬」の12品目の織り技法が伝統工芸品の指定を受けている。

手順・紋織

織ることに決まった図案を方眼紙に写し取り配色を決めて「紋意匠図」を作る。

使用する糸を選び終わったら紋意匠図をコンピューターに入力。
かつては人間が厚紙に糸の位置を指定する穴を開けていた。

必要な糸をそろえたら「整経」といって縦糸を織機にかけるために整え、横糸を通すシャトル (織物)が通るための「綜絖」(そうこう)の準備をする。

「製織」織機で織物を織る。

爪掻本綴織は、普通の織り方と違って横糸を一気に通さず、縦糸数本ごとに掬い上げていくので糸を締めこむための器具を使わず職人が爪で糸を締めこんでいかなければならない。

この作業のため爪掻本綴織の職人は手を丁寧に手入れしては利き手の爪を伸ばし、それぞれヤスリで独自の刻み目をつけている。
手間はかかるが非常に繊細な模様を織ることができるのが特徴で、国宝「源氏物語絵巻」や豊臣秀吉「鳥獣文様陣羽織」の綴織での複製などのプロジェクトが現在進行中である。

西陣織いろいろ

着物の装いの早覚え法として「(正装は)染めの着物に織の帯、(趣味着は)織の着物に染めの帯」という言葉がある。
染めの着物とは同じく京都の特産品である友禅のことで、織の帯とは最も品格が高いとされる西陣の錦をさす。
続く織の着物とは紬などの格の低い趣味的な織物のこと、染めの帯は友禅などの染め模様の帯をさす。

14代将軍徳川家茂は京都行きが決まると妻和宮親子内親王に故郷の土産は何がよいかと訊ねたところ、和宮は西陣織をねだった。
しかし家茂は大坂城で亡くなり、和宮には西陣織が届き悲しみつつ歌を詠んだ。

「空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ」

[English Translation]