賢聖障子 (Kenjo no shoji)

賢聖障子(けんじょうのしょうじ)は、内裏の紫宸殿母屋の北方北廂とのさかいに立てられていた障子。
「北の障子」、「絹障子」(『江家次第』)ともいう。

障子の上は色紙形であり、下を張りひろげて賢聖の像がえがかれた。
北側(裏)は唐草模様がえがかれた。
中央の上には負文亀、下には狛犬がえがかれている。
その東西それぞれに4間、1間ごとに像4人ずつ、つまり32人がえがかれた。

この障子は、弘仁年間に書画された。
陽成天皇の時代に完成したとも(『皇年代略』)、また寛平4年に巨勢金岡にえがかせたとも(『古今著聞集』)いう。

江戸時代になって、寛政元年、内裏造営のさいに、江戸幕府は図の冠服考を儒学者 柴野邦彦に命じて考証させた。
従来の中央上部の「蓬莱図」を古式に復し「負文亀」の図にあらためさせた。
聖賢32人のうち馬周、房玄齢、杜如晦の3人は土佐家伝来の図にもとづき復古させた。
羊祐以下倪寛までの8人は『年中行事』の図にもとづき、蘧伯玉、虞世南の2人は孔門弟子の図と十八学士のなかから選考し復古させた。
ほかの13人もそれぞれ古書に徴して復古させた。
住吉内記広行に像をえがかせ、色紙の文字は賀茂保誠に書かせた。

しかし嘉永7年、炎上のさいに障子のなかに大破するものもあった。
住吉内記弘貫に画を修補させ、色紙文字は賀茂保誠に書繕わせた。

色紙の大きさは縦1尺9寸、幅9寸3分であった。

[English Translation]