銭湯 (Sento)

銭湯(せんとう)は料金を支払って入浴できるようにした施設。
日本の公衆浴場の一種。

定義

日本の法律では公衆浴場として、次の定義がされている。

「公衆浴場法」第1条の規定
この法律で「公衆浴場」とは、温湯、潮湯又は温泉その他を使用して、公衆を入浴させる施設をいう。

「公衆浴場の確保のための特別措置に関する法律」第2条の規定
この法律で「公衆浴場」とは、公衆浴場法(昭和二十三年法律第百三十九号)第一条第一項に規定する公衆浴場であつて、物価統制令(昭和二十一年勅令第百十八号)第四条の規定に基づき入浴料金が定められるものをいう。

公衆浴場法の適用を受ける公衆浴場は各都道府県の条例で、「普通公衆浴場」と「その他の公衆浴場」に分類される。

「普通公衆浴場」とは、おおよそ「日常生活における保健衛生上必要な入浴のために設けられた公衆浴場」と定義され、一般に「普通公衆浴場」を「銭湯」と呼ぶ。
各都道府県の条例では、施設の衛生基準や浴槽水の水質基準などが定められる。

「その他の公衆浴場」とはその営業形態が銭湯とは異なる浴場のこと。
また、自治体によっては「特殊公衆浴場」とも呼ぶ。

なお、入浴料金は物価統制令(現憲法発布前に出された勅令。法律としての効力を持つ)の規定により、各都道府県知事の決定で上限が定められる。
そのため都道府県ごとで料金は違う。
いずれの都道府県においても「大人(中学生以上)」「中人(小学生)」「小人(未就学乳幼児)」の料金分けを採用。
また、洗髪する場合は追加の洗髪料金を徴収する地域もある。

銭湯の歴史

平安時代末、京に現在でいう銭湯のようなものが現れた。

鎌倉時代になると僧侶達が身を清める為に、寺社に設置されていた「浴堂」を一般にも無料で開放する寺社が現れた。
やがて荘園制度が崩壊すると入浴料をとるようになり、これが本格的な銭湯の始まりと言われている。

江戸における最初の銭湯は、天正19年(1591年)江戸城内の銭瓶橋の近くに伊勢与一が開業した蒸気浴によるものであった。

現在の湯槽式入浴は江戸時代から始まったものである。
当時は湯船の手前に石榴口(ざくろぐち)という入り口が設けられていた。
石榴口のために中は湯気がもうもうと立ちこめ、暗く、湯の清濁さえわからないようにしていた。
また石榴口に細工をほどこし、客がいちど使った湯をふたたび浴槽にいれたという。
『湯屋漫歳暦』には「文政(年間)の末に流し板の間より汲溢(くみこぼ)れを取ることはじまる」とある。
(1879年(明治12年)、政府は石榴風呂式浴場を禁止した。
)また男女別に浴槽を設定することは経営的に困難であり、老若男女が混浴であった。
浴衣のような湯あみ着を着て入浴していたとも言われている。
蒸気を逃がさないために入り口は狭く、窓も設けられなかったために場内は暗かった。
そのために盗難や風紀を乱すような状況も発生した。
寛政3年(1791年)に「男女入込禁止令」や後の天保の改革によって混浴が禁止されたが、必ずしも守られなかった。
江戸においては隔日もしくは時間を区切って男女を分ける試みは行われた。
また浴場、銭湯が庶民の娯楽、社交の場として機能しており、落語が行われたこともある。
特に男湯の二階には座敷が設けられ、休息所として使われた。
式亭三馬の『浮世風呂』などが当時の様子をよく伝えている。
当時の銭湯の入り口には矢をつがえた弓、もしくはそれを模した看板が掲げられることがあった。
これは「弓射る」と「湯入る」をかけた洒落の一種である。

なお、明治以前には、江戸では「銭湯」「湯屋(ゆうや)」と呼び、上方では「風呂屋」と呼ぶのが一般的であった。
また、当時は内風呂を持てるのは大身の武家屋敷に限られ、火事の多かった江戸の防災の点から内風呂は基本的に禁止されていた。
江戸末期には大店の商家でも内風呂を持つようになったものの、本格的な内風呂の普及は第二次世界大戦以降の高度成長期に下る。

明治時代に入ると外国への配慮から混浴は禁止されるが、銭湯そのものは都市化の進展や近代の衛生観念の向上とともに隆盛を極めた。
特に戦後、本格的に都市人口が増大すると、至るところで銭湯が建築された。

現代では休業日を利用して演奏会などを開催する銭湯もまれにある。
演奏者は天井の高い会場を確保でき、銭湯は集客効果も狙えるという利点がある。
また、閉鎖した銭湯の内装をリノベーション化してカフェや現代美術ギャラリー (美術)に改築されている。
このような建築資産を活かした新しい試みもされている。

軒数

平成17年(2005年)3月末日における全国浴場組合(全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会)加盟の銭湯の数は5267軒。
高度経済成長期以降、風呂付住宅が一般的になったことや、平成期に入って「スーパー銭湯」と呼ばれる入浴施設が次々と開業しており、急速に利用客、軒数共に減らしている。
全国最多の大阪府でも毎年30軒から60軒が廃業しており、1969年に2531軒あったものが、2008年3月末には1103軒まで激減している。

なお、平成18年(2006年)5月24日現在における東北6県の銭湯数(大人の入浴料金)は、青森県112軒(350円)、岩手県44軒(350円)、秋田県22軒(360円)、宮城県20軒(360円)、山形県4軒(300円)、福島県25軒(350円)。

構造

ごく一般的な銭湯の構造の例は次のようになっている(なお、この見取り図は関東地方の銭湯に多いパターンである)。

男湯と女湯

脱衣所の手前で男湯と女湯にわかれている。
図では左(M)が男湯、右(F)が女湯である。
しかし、左右の配置に特に決まりはなく、逆の場合もある。
外から覗き見えにくい側を女湯とする選び方もあるようである。

全体の構造

A:燃料室:従業員以外は立ち入り禁止。
釜場は屋外と連絡している。

(1) 燃料
(2) ボイラー
B:浴室:浴槽と洗い場に大きくわかれる。
ほかにシャワーやサウナ室が設けられる場合もある。

(3) 浴槽:水風呂、電気風呂、打たせ湯、座風呂、ジェット風呂、薬湯、露天風呂などを備えている施設もある。
特に日本式の風呂になじみの無い者のために、浴槽の中で体を洗わないなど入浴のルールや作法を脱衣場などに掲示しているところもある。
また、上がり湯専用のカランを備えているところもある。
東日本では浴室奥に設計されることが多く、西日本では浴室中央に設計されることが多い。

(4) 蛇口:温水と冷水が出る。
ボタンを押す間のみ湯水が出る「湯屋カラン」が多く使われる。
また、多くは混合水栓のシャワーを備える。

C:脱衣場と入り口:脱衣所の手前に休憩所が設けられるところもある。
板張り床ではなく高級な籐であることもある。

(5) ベビー寝台:主に女湯の脱衣所に備え付けられている。

(6) 脱衣箱:脱いだ衣服を入れる棚箱、今でいうロッカー。
月極めの貸しロッカーもまれにある。

(7) 番台:少なくとも江戸時代には銭湯に番台は存在した。
番台は図のように男湯と女湯を共に見渡す位置にある。
しかし新しい施設では、脱衣所とは別にフロントのように設計されることが多い。

(8) 暖簾:正面の入り口には大判の暖簾がかけられている。

(9) 下駄箱:個別に簡易な錠前がつくことが多い。
傘立ても同様。

(10)坪庭:片隅に小さな日本風の植栽などが設けられている所もある。

ペンキ絵

男湯の浴室正面の壁面に広がる富士山を主体とした図柄は、日本の風呂文化の象徴でもあった。
「銭湯」と聞くと富士山の壁絵を思い浮かべる人は少なくはないと思われる。
しかし正確には東日本、特に関東地方の銭湯に特有のものである。
西日本の銭湯では浴槽が浴室の中央に設計されることが多いこともあり、壁面にペンキ絵はほとんど無い。

富士山のペンキ絵は、東京神田猿楽町にあった「キカイ湯」が発祥といわれる。
大正元年(1912年)に「キカイ湯」の主人が、画家の川越広四郎に壁画を依頼したのが始めで、これが評判となった。
その結果、これに倣う銭湯が東京や東日本を中心に続出し、銭湯といえばペンキ絵という観念を生じるに至った。
女湯の浴室のペンキ絵は、富士山でなく、幼児や子供が喜ぶ汽車や自動車が描かれることが多かった。
2001年の時点でペンキ絵の絵師は関東で5名を残すのみとなり後継者の存続が危ぶまれている。

ちなみに平成18年(2006年)5月に閉館した交通博物館のパノラマ模型運転コーナーの背景壁絵のリニューアルの際(平成14年・2002年)にも、銭湯のペンキ絵の絵師によって、富士山などを主体とした山々が連なるペンキ絵が描かれた。

タイル絵

大型タイルに美しく豪華な上絵を描き、焼成したものをタイル絵という。
全国的にみられるタイル絵は、伝統の九谷焼で戦前より石川県金沢の「鈴栄堂」という窯元が全国に広めたもの。
壁面などの広い面積を装飾するため複数枚の大型タイルに柄続きの総柄に仕上げる。
白地の平滑な地に描かれる図柄は主に「宝船」や「鯉の瀧昇り」、「七福神」などおめでたく華美なものがほとんどを占め、美術工芸品並みの技巧を凝らし創られたタイルもある。
高級品でもあったため、設備資金にゆとりがあり集客の多い市街地の銭湯に多くみられた。

タイル

元々浴室内部は木造で板張りであったが、近代的でモダンな雰囲気と圧倒的な清潔さから陶器のタイルが好まれ、採用された。
タイルを最初に日本で使ったのは観光地の温泉で、イメージとしてのローマ風呂に影響されたらしい。
戦前には当時の最高級だった舶来のマジョリカタイルを大量に個人輸入し、絢爛豪華な浴室を誇った銭湯の主人も多かった。
タイル使用は戦前にまで考現することができるが、詳細は定かでない。
いずれにせよタイルの魅力は、欠けた部分だけを張り替えればよいという利便性にもあったようだ。

建築様式

全国的に寺社建築のような外観の共同浴場を見ることができる。
主に温泉が湧出する観光温泉地の共同浴場であるが、これが関東大震災後に東京で成立する宮型造り銭湯の様式としても採用された。
主に関東近郊にこの建築様式が集中しており、地方の銭湯では見られずきわめて数が少ない。
この宮型造り銭湯の都心での発祥は東京墨田区東向島の「カブキ湯」に始まる。
この建物入口に「唐破風」(記事冒頭部、子宝湯頭写真中央の曲線形の庇)もしくは「破風」が正面につく建築様式を『宮型』という。

神社仏閣や城郭の天守を想起させる切り妻の屋根飾りに合掌組を反曲させた曲線(写真建物の上端部)は、宗教性や権威を誇るディテールであり、また、極楽浄土へいざなう入り口を示すシンボリックな側面を合わせ持っている。
そこには一般在来建築とは様式が違うというだけでなく、非日常性という側面も垣間見える。
当時の主な銭湯の利用客である市井の人々には「お伊勢参り」や「金毘羅山参り」、「日光東照宮参り」 など日本各地の神社仏閣への「お参り」旅行は参詣本来の目的に加えてイベントであり娯楽であったことも鑑み、人々の平凡な日常にとって宮型造りの銭湯に足を運ぶことはいつかの「お参り」にいざなう魅力的な装置としても機能した。

風呂は浮き世のケガレを洗い流す、という点においては極楽浄土といえる。
唐破風が共同浴場に存在し得た理由はそこにあると推測される。

こうした宮型造りの銭湯は昭和40年代頃まで関東近郊で盛んに建てられたが、自宅に作る内風呂が普及し、またビルに建て替えられる銭湯も多くなって、数少なくなってきた。
しかし近年の懐古趣味であるちょっとしたレトロブームに乗って、中には新築で宮型造りの銭湯が建てられる物件もでてきた。

各地の銭湯の建築様式は様々であるが、コミュニケーションの場として日常生活に彩りを与える工夫がなされている所に共通点がみられる。

なお、大阪にある「源ヶ橋温泉」(生野区)は銭湯の建造物では数少ない、国の登録有形文化財に登録されている。
外観・内装とも昭和モダニズムの面影を残す貴重な建物である。
しかし、同じく登録有形文化財となっていた阿倍野区の美章園温泉は燃料費の高騰や耐震補強工事の困難さなどを理由に、2008年2月に廃業した。
文化財の指定を取り消され、解体された。

サービス

それぞれの施設で異なるが一般的に、番台やフロントなどで入浴に必要な道具や石鹸、入浴後に飲まれることの多い飲料である牛乳やサイダー、ジュース、缶ビール(一部の施設)などを販売。
脱衣所ではテレビや体重計があり、扇風機・ドライヤーやマッサージチェアも一部有料で利用できる。
喫煙についてはできる場所もあるが、時代の変化にともない一部、もしくは全面禁煙化した施設も多い。
頻繁に利用する入浴客には、割安な回数券も販売されている。

日本古来のならわしから柚子湯、菖蒲湯(しょうぶゆ)などの伝統行事を暦にあわせて行ったり、子供や年配客向けの割引・無料サービスを行うところもある。
最近では保育園・幼稚園・小学校に通う子供達を「裸のつきあいの意義を知る」としてクラス単位などで全員一緒に入浴させる「体験入浴」を学校行事とともに地域のふれあい行事として、一部の施設で行っている例もある。

施設によっては、浴場以外にサウナ風呂を有する場合もある。
東日本の銭湯の多くは200~300円程度の追加料金でサウナへ入浴が可能であるが、西日本では追加料金のない施設も多い。
料金を支払った客を区分しやすくするために、サウナ専用のカラータオルを貸しだすこともある。
雑誌・新聞などの持ち込みなどはほとんどの場合、入浴客の安全を考慮して制限される。

※郊外を中心に建設が盛んなレジャー型の銭湯(公衆浴場法外のその他の公衆浴場)については健康ランドやスーパー銭湯を参照のこと。

営業時間・営業日

江戸時代には朝から宵のうち(現在でいう夜の8時くらい)まで開店していたが、現代の日本では、午後あるいは夕方から深夜12時前後までの営業が一般的。
また、昨今の利用客の減少から、最近では近隣の銭湯で定休日が重ならないように調整しあう事もある。

[English Translation]