鞘 (Scabbard (saya))

鞘(さや)とは、刃物の身(ブレード)の部分を包む覆いのことを言う。
刃先を鋭利に保つために保護するとともに、刃が周りを傷つけないように隔離し、保管や携行中の安全を確保する機能を持つ。
材質は、伝統的には革、木、獣の角、布、金属などであるが、現代では合成樹脂が使われることもある。
これらは単一で用いられるより、組み合わせて用いられることが多い。

刀剣類の鞘

刀や剣、槍、薙刀術等の刀剣類では柄、鍔(つば)などと共に刀装(刀剣類の外装部分)を構成する。
木製の鞘(布や革で覆われることが多い)や革製の鞘は、一部に金属が使われることも多い。
特に刃物の差し入れ口や鞘の先(鐺:こじり)の部分は、傷みやすいため金属で補強され、帯剣(帯刀)のための吊り金具や装飾用の金具が着けられることもあった。
尚、19世紀のヨーロッパでは、全て金属でできた鞘がポピュラーになった。
これは、刃先の切れ味を悪くしてしまうという欠点は持っていたものの、革や木製の鞘に取って代わり、19世紀が終わるまでの主流を占めた。

佩用の形態

刀や剣を貴族や騎士、武士などが身分の証として平時に身に帯びたり、戦に赴く場合に身に着けることを佩用(はいよう)と言う。
これらは行動の妨げにならず、必要時には迅速に使用できなければならないため、抜きやすさから、洋の東西を問わず左の腰部に吊り下げられる形式が多かった。
また、西洋においては腰に帯剣用のベルトを巻く他に、肩からたすき掛けにしたベルトに、鞘を取り付ける形式もあった。
短刀や剣といった短寸のものは腹部や右腰部、後腰部あるいは胸部や脚部など、長さや使用目的によって各自が装備形態を工夫したようだ。
また、逆に長寸のものは背中に背負ったり、それも無理なほど長大なものは従者が持って付き従うこともあった。
また、戦国時代から江戸時代の打刀期の日本刀は帯に直接鞘を挿し通しており、これを帯刀という。

豪華な鞘

剣や刀は武器であると共に身分や権力の象徴でもあった。
王や豪族、上級貴族といった者たちは、愛刀(愛剣)の外装に、身分に相応しい豪華さを求めた。
珍しい素材(国内には産しない動物の皮や木など)を使い、優秀な工人が貴金属に玉や宝石をちりばめて作り上げた外装は、実用を離れ美術品の範疇に入るものであった。

伝説の鞘

アーサー王がマーリンからもらった2本目のエクスカリバーの鞘には不思議な力があったと伝えられる。
その鞘は所有者の身を護り、血を流させない魔力を持っていたという。

日本刀の鞘

日本刀においては、鞘材としてホオノキが使用されるのが一般的だった。
それは硬さが中庸で刃物を傷めず、強度も適度にあり、材が均質で漆塗り等の表面仕上げにも適するなど、優秀な鞘材としての特質を持っていたためと思われる。
外観は時代の流れと共に変化していったが、全体を金属で包んだ重く厚いものから、金属の使用を抑えた軽く薄いものへと移っていったのが、大きな流れと言える。

金属の使用を抑えた分は、サメの皮で補った。
鮫皮を巻いてその上に黒・藍・朱などの色漆をかけ、それをさらに砥石で研ぎ出して装飾文様を浮き出させる「鮫鞘」である。
堅固で美しく、しかも異様な雰囲気を醸し出したのですぐに広まり、室町時代の中頃には普及した。
鮫鞘には雨天下で湿ると締まりすぎて刀が容易に抜けなくなることがあるという欠点があったが、その装飾上における特長はこれを看過するに足るものだったのである。
京都国立博物館収蔵の「」(重要文化財)は南北朝時代 (日本)のものだが、江戸時代中頃になっても「江戸の粋」を凝縮した歌舞伎の傑作『助六』で助六の腰にあるのは「一つ印籠と鮫鞘」となっており、その存在は日本刀の芸術性とは不可分のものだった。

拵と白鞘

刀身を柄と鞘に納め、鐔や吊り金具(足金物)、補強用の諸金具を取り付け、木地には漆を塗るなどして、個々の刀剣外装として仕上げられたものを拵(こしらえ)と言う。
拵には時代や地方によって共通した特徴を持つ一群があり、それらを分類して~拵と呼ぶ。
例えば天正年間を中心として作られた、特徴的な打刀拵の一群を天正拵(てんしょうごしらえ)と呼ぶ。
また、肥後熊本藩で江戸時代を通じて作られた打刀拵の一群は、肥後拵(ひごこしらえ)と呼ばれる。

一方、朴の木の柄と鞘のみで白木のまま仕上げられ、柄には目釘(1)を入れただけの外装を白鞘(しらさや)と言う。
白鞘は刀剣類を保存することに特化した鞘で、白木のままのため、鞘内の湿度が調整され、刀身が錆びにくいと言われる。
それでも手入れの不備などで錆びたときには、鞘を合わせ目から割って、中の掃除をすることがある。
そのため、白鞘は飯粒を練って作った糊で貼り合わせてあるだけで、比較的簡単に割れるようになっている。
ヤクザ映画などでは、白鞘のままの刀で格闘する場面が見られるが、当然激しい使用に耐えられるものではない。
白鞘の歴史はそれ程古くはなく、江戸時代も後期になって作られ始めたと言う。
大名等、蔵刀が多い上級の武家では、武士の表道具と言われる刀を大切に保存するために、白鞘を用い始めたのであろう。
しかし、一般的に普及したのは明治の廃刀令以降と思われ、それまで武士が身に着けていた刀が、一部分の軍用の他には無用の長物となり、保管の対象になってしまった。

元来、刀身と外装は一体のもので、分けて考えられることは無かった。
「黒漆の太刀」と言った場合、刀身を含めた全体のことを言っているのであって、「黒漆を塗った太刀拵」の意味ではない。
太刀や刀という区別も、外装が持つ属性に起因するもので、刀身自体に互換性が無いほどの差異がある訳では無かった(もちろん、それぞれに適した刀身の姿があり、制作時にはそれに則って作られている)。
それが、刀身は白鞘に入れ、外装にはつなぎ(2)を入れて別に保管するようになった為、分けて呼ぶ必要が生じ「拵」と呼ばれるようになった。

目釘(めくぎ)柄から刀身の茎(なかご)が抜けないようにする為、双方を貫通して差し込まれた、長さ2~3センチ程の釘状の部品。
白鞘では竹や水牛の角、拵ではその他に金属で作られることもある。

つなぎ繋ぎの意。
本来刀身が入っていることによって連結されている柄と鞘に、刀身の代わりに入れられる木製の刀形。
竹光と言われることもあるが、現在では殆ど朴の木で作られるため、単につなぎと呼ばれる。

古代の鞘

弥生時代の出土品に、鞘らしきものの痕跡をとどめる青銅剣があることから、既に何らかの刀剣外装の文化があったと思われるが詳細は不明。
次の古墳時代になると出土品が多くなり、環頭大刀(かんとうだち)や頭椎大刀(かぶつちのたち)など、柄頭に特徴的な装飾がある外装が目立つようになる。
柄や鞘には金銅製の筒金や、模様を打ち出した金銅または銀の薄板、金線や銀線などが多様され、出土品でありながら今尚その輝きを残していて、制作当時のきらびやかな様を想像させる。
この期の大刀の柄の長さは片手用で、頭椎大刀のように球形に張り出した柄頭は、バット (野球)のグリップエンドのように実用的な意味もあったと思われるが、これらの豪華な外装に包まれた大刀が実際に使用されたかどうかは判らない。

奈良時代の刀剣外装を語るうえで、正倉院収蔵の刀剣類は貴重な存在である。
数少ないこの期の刀剣の史料であるとともに、伝世品であるため極めて状態が良い。
代表的なものに金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうのからたち)があり、白鮫(白いままの鮫皮)を巻いた柄、唐鐔、精緻な透かし彫を施した長金物(鞘に嵌める筒状の金具)、山形金物が付く足金物(吊り金具)などの特徴は、後の時代の飾剣(かざりたち)と共通のもので、その祖形であると思われる。

前時代までの刀剣が、中国や朝鮮半島からの伝来品か、それらを模して国内で作られたものが多かったのに比べ、平安時代に入ると国風文化の進展に伴い、伝来品を下敷きとしつつも我国独自の様式が形作られていった。
平安時代も前半はまだ直刀の時代で、この時期に最高位の刀剣外装である飾剣様式が完成し、束帯姿で儀式に参列する時などに佩用されたが、上級の公卿にしか使用は許されないものであった。
全体的に前時代の唐大刀に似るが、柄や鞘が細長く優美になり、内部には刀身ではなく細い鉄棒状のものが入っているだけで、純然たる儀仗用の外装である。
代表的なものに東京国立博物館所蔵の国宝、梨地螺鈿金装飾剣(なしじらでんきんそうのかざりたち)などがある。
また、贅を尽くした飾剣は高価であったため、部分的に省略した細太刀(ほそだち)様式も作られ、飾剣の代として身分や経済力に応じて佩用された。
これらは宮中の儀式に必要なもので、弯刀(わんとう反りのある刀、狭義の日本刀)時代に入ると、反りが付くようになるなど、若干の変化を加えながら、江戸時代末期から明治、大正、昭和初期に至るまで、少数ではあるが作られ続けた。

これまで述べてきた刀剣外装は概ね儀仗用のもので、戦陣に赴くときに佩用されることは無かったと思われる。
それでは実用的な外装はどうであったかと言うと、消費されるのが運命だったそれらの外装は、ほとんど残されていないのが実状だ。
希少な例として、正倉院に奈良時代から伝わる蕨手刀(わらびてとう正倉院では黒作横刀と呼称)や黒作大刀(くろつくりのたち)などがあり、京都の鞍馬寺には坂上田村麻呂の佩用と伝えられる平安時代の黒漆大刀(くろうるしのたち)がある。
これらは鞘の木地に薄革を着せ黒漆をかけるという手法や、簡素で実用的な金具類の使用、装飾がほとんど無いなどの特徴から、実用的な外装であったと思われる。
しかしこれらとて細部まで神経の行き届いた作りの良さから、一般の兵卒用よりは、かなり上等なものであろう。

日本刀歴史

太刀の鞘

平安時代中期頃と言われる弯刀の誕生により太刀(たち直刀の大刀とは区別)が出現する。
刀身に合わせて反りがつくようになった鞘は、上代の大刀同様鞘口付近と中程の二箇所に足金物が付き、それぞれに帯取(おびとり)が取り付けられる。
それらに太刀の緒を通して結び付け、太刀の緒を腰に腰に巻付けることにより、ほぼ水平に太刀が保持される。
太刀の緒には組紐や革紐が用いられ、長さは通常3メートル以上にもなったため、鎧を着用した上からでも二重に回せる余裕が有った。
二ノ足(足金物の内中央寄りの方)と鞘尻の石突金物との間には責金が一つ入るのが基本的な形式で、これは古墳時代晩期の蕨手刀等に既に見られる形式であり、下っては江戸時代の半太刀(はんだち太刀風の金具を用いた打刀拵)や昭和初期の太刀風の軍刀にまで踏襲された。

打刀の鞘

鞘の塗りには、滑り止めの効果を狙った「石目塗り」「叩き塗り」、凹凸の無い「呂塗り」(ツヤ塗り)、高い装飾性をもつ象嵌の「金粉散らし」「青貝散らし」「金蒔絵」「鮫皮研ぎ出し鞘」、滑り止め効果と装飾性をあわせもつ「~分刻み」(印籠刻み)などがあり、「革」や「鱗」を使った特殊なものもある。

(少なくとも近代以降の)日本刀の製作は分業が徹底されているが、鞘に関してもそれ自体を作る職人と塗りの職人は別の者が担当することが多い。

太刀の佩用方法は腰から吊るす。
打刀は帯に挿す。

軍刀の鞘

軍刀には、鉄・アルミニウム製の鞘、柄が存在する。

陸軍においては、最初の明治十九年制刀は、メッキ加工され銀色に輝いていた鞘だったが、敵機に見つかり易いために、九四式軍刀および九五式軍刀からはメッキに代わり艶消しの塗装を施されるようになった。
九四式と九八式は鉄鞘のものも多いが、戦地用には重過ぎるため、革をかぶせた木製の鞘が多用されるようになっていった。
海軍においては、儀杖的な意味合いが強く、昭和12年制定の太刀型軍刀は、黒漆塗りもしくは研出し鮫皮巻の鞘が用いられた。
海軍刀においても、海軍陸戦隊で使われたものには陸軍同様鞘に革をかぶせたものも存在する。

木刀の鞘

日本武術の抜刀術において、初心者または一部の流派では江戸時代から鞘木刀を稽古に使用している。
鞘は木または紙で作られるが武道店では合成樹脂製のものも見られる。
漆については伝来木刀の写しの場合は塗る。

[English Translation]