万世一系 (Bansei-Ikkei (Unbroken Imperial line))

万世一系(ばんせいいっけい)は、永久に一つの系統が続くこと。
多くは皇室・皇統についていう。

定義

伊藤博文は、皇位継承における万世不変の原則として、万世一系を以下のように定義している。

皇祚を践むは皇胤に限る

皇祚を践むは男系に限る

皇祚は一系にして分裂すべからざる

根拠とされた日本神話の記述

天皇が日本を統治する根拠とされたのは、下記の伝説による。
天照大神が「天壌無窮」に葦原中国を治めよという神勅を瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)とその子孫に下し、瓊瓊杵尊の曾孫である磐余彦が初代天皇・「神武天皇」として即位したことによる。

『古事記』には天照大神が孫の瓊瓊杵尊に「この豊葦原水穂国は、汝の知らさむ国なり」とある。
『日本書紀』には下記のような記述がある。
「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。」
「爾皇孫、就でまして治らせ。」
「行矣。」
「宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。」

この記述が、皇室が日本を永遠に統治する歴史的・法的な根拠であるとされた。
大日本帝国憲法第1条はこの記述を明文化したものである。
日本神話に登場する初代の天皇・神武天皇から現在まで、天皇の王朝が断絶せずに皇室が日本を一貫して統治してきたとする史観を形作った。
このように、万世一系は天皇制において不可欠なものとされているのである。

「万世一系」論の始まり

「日本は、王朝交代したことがない点で他国と基本的に異なる」という信念は、日本の王朝と同じくらい古くからあった。
この主張は、十数世紀にわたって人々に誇りをいだかせるとともに、不思議に思われてきた。

大伴家持(おおとも の やかもち、718頃-785)は『万葉集』を編纂した奈良時代有数の歌人である。
大伴家持は自分が仕えた聖武天皇を褒め称える次のような和歌を残している。
(下記の現代語訳は日本学術振興会の英訳から)。

天皇たちの長い家系が 世々代々この諸地方を治めてきた

深山がつらなり 広き川があまた流れ 数えきれぬ貢(みつ)ぎ物(もの) 尽きせぬ宝を 産みなすこの国を

この和歌では天皇の家系が長いと述べているが、どれほど長いかは言及していない。

『日本書紀』は、神武天皇が帝国を創建した紀元前660年の第一月第一日を王朝の起点とした。
聖徳太子(しょうとくたいし、574-622)は、この日付を初めて定式化した。
天皇の王朝に大いなる古さを付与しようとしたのである。
実際の建国は1000年後と思われるが、この日付は日本人に自国の建国日として受けとめられた。
国体(政治構造)の不変さの証拠とされることもしばしばだった。

神武天皇が創始した王朝は、「神の代」の祖先たちの系譜を引き継いでいるとも信じられていた。
そのため、日本の王朝は永遠であり、万世一系であると考えられていた。

中国での「万世一系」論

王朝が非常に古いという主張は、自国民を感心させるためだけではなかった。
国家としては日本より古いが、歴代王朝は日本より短命とされた中国に感銘を与えるためでもあった。
いくつかの事例に照らせば、中国人は日本のこの主張を気にとめ、一目置いていたと言って良い。

『新唐書』は唐の歴史をまとめた史書だが、日本の歴史も略述されている。
「神の代」に属す日本の支配者33人がリストアップされている。
『日本書紀』などが掲げており、「人の代」に属す歴代天皇58代(神武天皇から光孝天皇まで)も列挙されている。

楊億(ようおく)は『新唐書』の編纂に参加した人物である。
平安時代の日本の学僧であるちょう然(ちょうねん、938-1016)が当時の中国皇帝にもたらした情報について記録を残している。
ちょう然は下記の情報をもたらしたという。
「王家はひとつだけで、64代引き続いておさめてきた(国王一姓相伝六四世)。」
「行政・軍事の官職はすべて世襲である。」
「当時の天皇は円融天皇である。」
神武天皇に始まる皇統譜によれば、円融天皇はまさしく64代目であり、楊億の記述と合致する。

『宋史』は宋 (王朝)の歴史をまとめた史書である。
そのなかの「日本伝」に、北宋の皇帝・太宗 (宋)の反応を以下のように記述している。

日本人も、王朝の寿命の長短に関する中国との比較論に熱中した。
北畠親房(きたばたけ ちかふさ、1293-1354)の『神皇正統記』では以下のように論じている。

ヨーロッパでの「万世一系」論

16~17世紀のヨーロッパ人も、万世一系の皇統とその異例な古さという観念を受け入れた。
日本建国の日付を西暦に計算しなおして紀元前660年としたのは、ヨーロッパ人である。

ロドリゴ・デ・ビベロはスペインのフィリピン臨時総督である。
『ドン・ロドリゴ日本見聞録』に、日本人について以下のように記述している。

当時の天皇は後水尾天皇である。
神武天皇に始まる皇統譜によれば、後水尾天皇はまさしく108代目である。

ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンはスペインの貿易商人である。
1615年、日本から以下のように報告している。

ここでも日本建国を紀元前660年としている。

エンゲルベルト・ケンペルは長崎の出島のオランダ商館に勤務したドイツ人医師である。
『日本誌』で以下のように説明している。

さらに、歴代天皇の名前と略伝を日本語の文献に登場するとおりに列記しているのである。

江戸時代の「万世一系」論

江戸時代、尊皇家は天皇への尊崇と支持を高めるため、天皇家の大変な古さと不変性を強調した。

山鹿素行(やまが そこう、1622~85)は儒学と軍学の大家である。
神武に先立つ皇統の神代段階は200万年続いたと主張している。
寛文9年(1669年)に著わした『中朝事実』(ちゅうちょうじじつ)で下のように論じている。

とはいえ、江戸時代の知識人全員が、太古的な古さという主張に賛成したわけではない。
本多利明(ほんだ としあき、1743~1820)は蘭学を学んだ経世家である。
寛政10年(1798年)の論考のなかでこう説いている。
「世界最古の国はエジプトで6000年の歴史を有し、中国も3800年の歴史を主張しうる。」
「それにたいし、神武天皇即位からは1500年しか経っていないのだから、日本の歴史はずっと短い」。
1500年というこの年代は、近代の学者が示唆する3世紀末に驚くほど近いと、ドナルド・キーンは指摘している。

明治時代の「万世一系」論

明治時代の多くの知識人は、皇室の永続性というドグマを受け入れ、誇りに思っていた。
福澤諭吉(ふくざわ ゆきち、1835-1901)も、皇室の永続性は近代化を推進する要素だと見なしていた。
明治8年(1875年)に執筆した『文明論之概略』の「西洋の文明を目的とす」の一節にて、以下の持論を展開している。

ただ、国の紀元についてのドグマは、その信奉を強制されていたわけではない。
新渡戸稲造(にとべ いなぞう、1862-1933)はクリスチャンの教育者である。
国際連盟の事務局長の職にあったとき、日本国外の公式の場で、紀元の正確さにはっきりと疑問を呈している。
スウェーデンの首都・ストックホルムで開かれた日本・スウェーデン協会の会合の際、演説のなかで次のように述べた。

戦前での概念

万世一系は、戦前において、共和制や共産主義革命を否定する根拠とされた。
また、日本は君民一体の国柄で、他国のように臣下や他民族が皇位を簒奪することがなく、臣民は常に天皇を尊崇してきたとする歴史観を形成した。
さらに、日本は神の子孫を戴く神州であり、延いては世界でも優れた道義国家であるとする発想を生んだ。
戦前には、国粋主義と結びついて皇国史観という歴史観を形成した。
特に、明治維新から戦中までの期間には、国家公認の史観として重視され、大日本帝国憲法第1条にも記載されていた。

戦後の「万世一系」論

「戦前の日本で天皇の王朝の非常な古さが国家主義的に悪用されたことに強く反発する戦後の歴史家は、日本における天皇制と天皇家の異例な長命さという意義を軽んじてきた。
しかし、そうした彼らでも認めざるをえないのは、皇位を占めている血縁集団が世界最古の在位の君主家だということである。」
上記のような指摘が戦後の研究に対してなされている。

万世一系はもはや公式のセオリーとはされなくなったが、公式の場での談話や発言からは消えなかった。
昭和52年(1977年)8月、那須御用邸での記者会見にて、昭和天皇は次のような説明をした。

日本国憲法は、天皇の祖先たちへの言及も、王朝の古代史的な古さへの言及もしていない。
しかし、皇室の法的地位は、皇位の世襲の原則を再確認することで是認された。
昭和41年(1966年)、王朝の起点である2月11日のまま、戦後廃止された「紀元節」がほぼ同義の「建国記念の日」として復活した。

平成2年(1990年)、明仁が天皇に即位した。
即位にあたり、祖先および神々とのきずなを強調する上代からの儀式、「大嘗祭」(だいじょうさい)が執り行われた。
平成11年(1999年)、皇統を褒め称える「君が代」も、国旗国歌法により日本の国歌として確定された。

大日本帝国憲法

明治22年(1889年)、近代国家の憲法として大日本帝国憲法が公布された。
この憲法では、皇室の永続性が皇室の正統性の証拠であることを強調していた。
『大日本帝国憲法における告文』(憲法前文)には、以下のような文章がある。

輝かしき祖先たちの徳の力により、はるかな昔から代々絶えることなくひと筋に受け継がれてきた皇位にのぼった朕は...

そして、憲法第1条にて「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定されたのである。
近代的な政治文書で「万世一系」のような詩的な文言がもちいられたのは、これが初めてである。
「万世一系」のフレーズは公式のイデオロギーの中心となった。
学校や兵舎でも、公式な告知や発表文でも、広く使われて周知されていった。

君が代

明治13年(1880年)、日本の国歌として『君が代』が採用された。
君が代は10世紀に編纂された『古今和歌集』に収録されている短歌の一つである。
バジル・ホール・チェンバレンはこの日本の国歌を翻訳した。
日本の国歌の歌詞とチェンバレンの訳を以下に引用する。

日本の国歌の『君が代』も皇統の永続性(万世一系)がテーマとされている。
世界で最も短い国歌が世界で最も長命な王朝を称えるとされているのである。

なお、現在の政府公式見解では、下記のように説明している。
(「君」とは)「日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す」
「『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。
『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる」
(君が代の歌詞を)「我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当」

国体の本義

国体の本義とは、昭和13年(1938年)、「日本とはどのような国か」を明らかにしようとするために、当時の文部省が学者たちを結集して編纂した書物である。
万世一系についての主張を以下に引用する。

その他の「万世一系」論

朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ萬世一系ノ帝位ヲ踐ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ......(大日本帝国憲法発布の詔勅)

大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス(旧皇室典範第一条)

天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)。

詔勅や外交文書の冒頭では、このように「天皇」に対する修飾語として用いられることもあった。

天皇家の起源

現在においては、神武天皇から仲哀天皇までは伝説的な天皇であると位置づけられている。
『古事記』と『日本書紀』を編集した人物は、当代の天皇の正統性を確保しようとするために、これらの天皇とその年代を、当時最先端の科学(讖緯説)に基いて算出したと考えられるが、現在の科学からは疑問視される部分も多い。
そのために年代の折り合いを付けるのに苦労し、いくつか矛盾がでてしまったと見られるのである。

古代日本の統一国家の樹立には朝鮮と中国が先例になっている可能性がある。
東洋史学者の江上波夫(えがみ なみお)は、馬に乗る民族が日本に渡って来て、今日に至る王朝を樹立したとする騎馬民族征服王朝説を発表した。
また、中国の史書によると、倭の五王が朝貢してきたとある。

さらに、第26代継体天皇が、新しい系統を開いた可能性があるという説がある(ただしその根拠である『日本書紀』は、一系の連綿性を明記している)。

公式の編年誌にこれほどの手がかりが見いだされることは、6世紀までの日本で、王朝が次々と交代したか、いくつもの王朝が異なる地方を同時期に並列して支配していたことを示唆しているのかもしれない。
とはいえ、6世紀以降には王朝交代した証拠はない。
日本の現王朝は少なくとも1500年もの長命を誇るのである。

1500年以前に存在した他の君主家で、今日なお君臨し続けているものは、世界のどこにもない。
皇室に名字がない事実も、天皇の王朝の古代史的な古さを証しだてている。
日本人が歴史が始まって以来知っている唯一の王朝だからである。

疑義・論争

万世一系についていくつかの疑問がなされ、大きな論争に発展した。

戦前の論争

明治44年(1911年)には、国定教科書問題・南北朝正閏論争があった。
学校の歴史教科書で「南北朝時代」の用語を使っていた。
このことをめぐって、帝国議会で南北朝正閏論が問題化した。
それ以降の教科書では、「吉野朝時代」の用語を使うことになった。
この問題では、万世一系の概念の中で、皇統の一系(皇統が分立することがない)が問題になった。
江戸時代から一般的であった南北朝時代の史観が、明治時代の万世一系では不適当とされた事例である。
また、壬申の乱のような天皇家での争いは、教科書に記述がなかった。

この問題のように、南北朝問題は、万世一系や皇国史観が史実に基づいているかを考察するうえで重要な問題である。
また、古事記や日本書紀などの古代史の研究が進むにつれて、考古学の成果により初期の天皇の実在に疑問がなされたり(欠史八代)、第26代の継体天皇の即位を王朝交代とする説がなされた(現在では、継体天皇は第25代までの天皇とは血のつながりがないとの説も存在する。)。
このように、戦前・戦後を通じて、歴史学の観点から万世一系が歴史的な事実であるかについて、疑問がなされてきた経緯がある。
しかし、特に戦前では、不敬罪・治安維持法などの存在などから、皇室の権威にかかわる問題について論争が自由にできなかった。
万世一系を否定する見解を徹底して主張した歴史家や知識人は、決して多くはなかった。

国体との関係

万世一系が天皇制の根拠とされていたので、いわゆる国体の問題でも深い影響を与えていた。
天皇機関説論争の際には、神勅が天皇による直接統治の根拠とされた。
『国体の本義』でも、神勅や万世一系が冒頭で強調されている。
昭和維新を標榜した一連の変革運動でも、君民一体の思想から、天皇による直接支配こそ社会の閉塞をうちやぶるものであり、「君側の奸」がそれを妨げているという主張がなされた。
この問題により、万世一系をめぐる論争は、天皇制の問題と結びついて大きな広がりを持つことになる。

皇位継承問題

第二次世界大戦後、愛子内親王などの皇族の女子が誕生する一方で、秋篠宮文仁親王誕生以降は悠仁親王の誕生まで約40年もの間皇族の男子が誕生せず、皇位継承の権利を持つ皇族の男子が不足している。
このため、皇室典範が早期に改正され、女性天皇が誕生する可能性が高まっていた。
このことを背景に、皇統の女系天皇を容認しようとする皇室典範に関する有識者会議などの動きがある。
だが、万世一系の伝統が断絶するとして、反対する意見が強く、女系容認には至っていない。

他国の万世一系

トンガを支配する王朝もまた、神話に繋がる万世一系の王朝とされる。
記録に残る最古の王は、10世紀のアホエアトゥ王とされている。

[English Translation]