二条天皇 (Emperor Nijo)

二条天皇(にじょうてんのう、康治2年6月18日(1143年7月31日) - 永万元年7月28日(1165年9月5日))は第78代天皇(在位保元3年8月11日(1158年9月5日) - 永万元年6月25日(1165年8月3日))。
名を守仁(もりひと)という。

系譜

後白河天皇の第一皇子。
母は源有仁の養女・贈皇太后源懿子(よしこ)。
外祖父は藤原経実。
祖父である鳥羽法皇の后・美福門院の養子となる。

略歴

生母の懿子(よしこ)が急死したことで祖父・鳥羽法皇に引き取られ、美福門院により養育された(『山槐記』)。
近衛天皇が即位しており、更に同じく美福門院の養子として先に入っていた重仁親王(崇徳上皇の長男)がいたために皇位継承の望みは薄く、仁平元年(1151年)10月、僧侶となるために伯父である覚性法親王のいる仁和寺に入った(9歳)。
その後、孫王は仏典をよく読みこなし「ちゑふかくおはしましけり」(『今鏡』)と評判になった。
近衛は病弱で子もいなかったことから、仁平3年(1153年)関白・忠通が鳥羽法皇に孫王への譲位を奏請し、美福門院も崇徳の院政への危惧から孫王の擁立に傾いていった。
久寿2年(1155年)7月に近衛が崩御すると「王者の議定」が行われて、孫王即位までの中継ぎであることを条件に、雅仁親王(後白河天皇)が即位した。
8月仁和寺から戻った孫王は、9月親王宣下を蒙り「守仁」と命名され即日立太子、12月に元服、翌年3月には美福門院の皇女・しゅ子内親王を妃に迎えるなど、美福門院の全面的な支援を受けた。

保元3年(1158年)8月、後白河は守仁に譲位する(二条天皇)。
これは「仏と仏との評定」(『兵範記』保元3年8月4日条)によるもので、美福門院が信西に強く要求して実現したものであった。
二条天皇を支える勢力として、藤原伊通(美福門院の従兄弟)・藤原経宗(二条生母・懿子の弟)・藤原惟方(二条の乳母・俊子の子)らが集結して、二条親政派を形成した。
ここに、二条親政派と後白河院政派の対立が始まった。
二条は美福門院に育てられたこともあり、実父・後白河との関係は冷淡なものであった。
平治元年(1159年)12月平治の乱が起こると、二条は反乱軍に幽閉されるが清盛の六波羅邸へ避難する。
『平家物語』によると女房車の中を覗いた武士が、二条を女房と見誤ったとする。
女性のような美貌を持った美男子だったという。

乱が終結した直後の12月29日に美福門院の八条邸に行幸し、翌正月には太皇太后・藤原多子を入内させる(二代の后)。
『平家物語』は多子の入内を二条の独断とするが、後見の美福門院や側近の経宗・惟方がこのような重大問題に関与しなかったとは考えにくく、二条の立場を固めるための政略的な婚姻と推測される。
しかし、3月に経宗・惟方が後白河の命により配流されて失脚、7月には藤原隆信が院昇殿停止処分を受け、8月には中宮・姝子内親王が病により出家、11月には後見の美福門院が死去するなど二条親政派の要人が次々に消えて、二条の立場は不安定となり後白河院政派が勢力を拡大した。
表面的には「院・内申シ合ツツ同ジ御心ニテ」(『愚管抄』)二頭政治が行われたが、両派の対立は深く「上下おそれをののいてやすい心なし、ただ深淵にのぞむで薄氷をふむに同じ」(『平家物語』)という状況であった。

二条が頼みとしたのは、藤原伊通と平清盛だった。
伊通は太政大臣として二条を補佐し、政道の意見書『大槐秘抄』を著した。
また乳母・平時子を従三位典侍にするとともに(『山槐記』)、時子の夫・清盛を検非違使別当・中納言にすることで軍事的な後ろ盾とした。
応保元年(1161年)9月、後白河と平滋子の間に生まれた皇子憲仁(後の高倉天皇)を皇太子にしようとする陰謀が発覚すると、二条は後白河近臣の平時忠・平教盛・藤原成親・藤原信隆を解官して、後白河の政治介入を停止した。
「主上二条院、世ノ事ヲバ一向ニ行ハセマイラセテ」(『愚管抄』)実権を掌握した二条は、親政の拠点を押小路東洞院の内裏に据えて清盛に警護させた。
12月には美福門院の皇女・あき子内親王に八条院の院号を与えて准母となし、出家していた姝子内親王にも高松院の院号を与えた。
さらに、忠通の養女・藤原育子(むねこ、実父は徳大寺実能)を中宮として、関白・基実とも連携して摂関家も自らの下に取り込むことに成功した。
応保2年(1162年)には叔父の経宗を召還する一方、自らを呪詛した時忠・源資賢を配流するなど着々と政治基盤を固めていった。

二条は悪僧・神人の統制令や荘園整理など、信西の政策を踏襲して積極的な政務を展開する。
政治から排除された後白河は信仰の世界にのめりこみ、蓮華王院を造営して供養の日に二条の行幸と寺司への功労の賞を熱望するが、二条が拒んだことから後白河は恨みを抱いたという(『愚管抄』)。
蓮華王院には荘園・所領が寄進され、二条は後白河の院政復活の動きに警戒心を抱くことになる。
長寛2年(1165年)2月、太政大臣の伊通が亡くなり、自らも病に倒れた。
6月には前年に生まれた実子の順仁親王(六条天皇、中宮・育子の養子)に譲位し、7月に押小路東洞院で崩御した。

二条は優れた人物で「末の世の賢王におはします」(『今鏡』)と賞賛され、愚昧とされた父・後白河とは対照的だった。
一方で、後白河との対立は生涯に渡って解消されることはなく、「孝道には大に背けり」(『源平盛衰記』)という世評もあった。

在位中の元号

保元 (1156年4月27日) - 1159年4月20日

平治 1159年4月20日 - 1160年1月10日

永暦 1160年1月10日 - 1161年9月4日

応保 1161年9月4日 - 1163年3月29日

長寛 1163年3月29日 - 1165年6月5日

永万 1165年6月5日 - (1166年8月27日)

陵墓・霊廟

京都市北区 (京都市)平野八丁柳町の香隆寺陵(こうりゅうじのみささぎ)に葬られたとされる。

[English Translation]