倭の五王 (Five kings of Wa)

倭の五王(わのごおう)とは、5世紀に、南北朝時代 (中国)の東晋や宋 (南朝)に朝貢して「倭国王」などに冊封された倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武をいう。

年表
413年 - 478年の間に少なくとも9回は朝貢している。
それを年表にすると次のようになる。

天皇と倭の五王

比定説
『日本書紀』などの天皇系譜から「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇等の説がある。
このうち「済」、「興」、「武」については研究者間でほぼ一致を見ているが、「讃」と「珍」については「宋書」と「記紀」の伝承に食い違いがあるため未確定である。
他の有力な説として、「讃」が仁徳天皇で「珍」を反正天皇とする説や、「讃」は応神天皇で「珍」を仁徳天皇とする説などがある。
「武」は、鉄剣・鉄刀銘文(稲荷山古墳鉄剣銘文 獲加多支鹵大王と江田船山古墳の鉄剣の銘文獲□□□鹵大王)の王名が雄略天王に比定され、和風諡号(『日本書紀』大泊瀬幼武命、『古事記』大長谷若建命・大長谷王)とも共通する実名の一部「タケル」に当てた漢字であることが明らかであるとする説がある。
このことから、他の王もそうであるとして、「讃」を応神天皇の実名ホムタワケの「ホム」から、「珍」を反正天皇の実名ミヅハワケの「ミヅ」から、「済」を允恭天皇の実名ヲアサヅマワクゴノスクネの「ツ」から、「興」を安康天皇の実名アナホの「アナ」を感嘆の意味にとらえたものから来ている、という説もある。
しかしながらいずれも決め手となるようなものはなく、倭の五王の正体については今のところ不確定である。

一方、「倭の五王」の遣使の記録が『古事記』『日本書紀』に見られないことや、ヤマト王権の大王 (ヤマト王権)が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないため、「倭の五王」はヤマト王権の大王ではないとする説もある。

九州王朝説では、銘文のワカタケル大王と倭王武が、一致しないため、別のものとし、武が雄略ともその大王ともちがい、ヤマタイ国の後継とし、両者を従えていたとする。
また、風土記の倭武天皇が倭王武と同一視する。

使いを遣わして貢物を献じた目的として、中国大陸の文明・文化を摂取すると共に、南朝の威光を借りることによって、当時の日本列島中西部の他の諸勢力、朝鮮半島諸国との政治外交を進めるものがあったと考えられる。

『記紀』年次との対応関係

『古事記』に年次の記述は無いが、文注として一部天皇の没年干支を記す。
この没年干支を手がかりに、倭の五王を比定する説がある。
『古事記』は天皇の没年を次のように記す。

十五代応神、甲午(394年)
十六代仁徳、丁卯(427年)
十七代履中、壬申(432年)
十八代反正天皇、丁丑(437年)
十九代允恭、甲午(454年)
二十一代雄略、己巳(489年)
二十六代継体、丁未(527年)

『古事記』の没年干支を正しいとすれば讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略となる。
しかし一ヶ所、『宋書』の記述と矛盾する。
それは『宋書』倭国伝の次の記述である。

「讃死弟珍立遣使貢献」
元嘉十三年(436)讃死して弟珍立つ。
遣使貢献す。
(『宋書』倭国伝)

すなわち珍を讃の弟とする記述である。

『古事記』が437年に没したとする反正は、『記紀』によるかぎり仁徳とは親子関係である。
讃を仁徳、珍を反正とすると、『宋書』倭国伝が、珍を讃の弟とする記述と矛盾する。
反正は履中の弟である。
この一点を除けば、『古事記』の天皇没年干支から倭の五王が推測できるとも考えられる。

一方『日本書紀』の年次では、413年から479年の間の天皇は、允恭・安康・雄略の3名である。
中国史書の5名との対応がとれない。
また、421年の讃、436年の珍、443年の済という三人の遣使に対し、『日本書紀』のこの期間に該当する天皇は、411年から453年まで在位したとする允恭1人である。
『日本書紀』の年次とは矛盾点が多く、対応関係がとれない。

しかし、そもそも『古事記』、『日本書紀』とも倭の五王の遣使に明確に対応する記事はない。
また、記紀の史料批判により、継体天皇以前の編年は到底正しいとは言えず、このころの王家内部では文字による記録が常時取られていたとは考えがたいことから、記紀に伝えられた干支や系譜を元に倭の五王を推定するという試み自体をあまり意味がないとする意見も根強い。

[English Translation]