允恭天皇 (Emperor Ingyo)

允恭天皇(いんぎょうてんのう、仁徳天皇64年(376年)? - 允恭天皇42年1月14日 (旧暦)(453年2月8日))は、第19代の天皇(在位:允恭天皇元年12月 (旧暦)(413年1月) - 同42年1月14日 (旧暦)(453年2月8日))。
雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)、男浅津間若子宿禰王(古事記)。
中国の歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。

系譜

仁徳天皇の第四皇子。
母は葛城襲津彦の女・磐之媛命(いわのひめのみこと)

履中天皇、反正天皇の同母弟。

皇居
都は遠飛鳥宮(とおつあすかのみや、現在の奈良県高市郡明日香村飛鳥か)。

飛鳥の地に宮を設けた初めての天皇が允恭であった。

略歴

以下、『日本書紀』に拠る。

反正天皇5年1月(410年2月)、反正天皇が皇太子を定めずして崩御したため、群臣達が相談して雄朝津間稚子宿禰尊を天皇(大王)に推挙する。
尊は病気を理由に再三辞退して空位が続いたが、允恭天皇元年12月(413年1月)、忍坂大中姫の強い要請を受け即位。

3年8月(413年9月)、新羅から医者を招聘、天皇の病気を治療する。

4年9月(415年10月)、諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を実施する。

5年7月(416年8月)、玉田宿禰(葛城襲津彦の孫)の叛意が露顕、これを誅殺する。

7年12月(419年1月)、皇后の妹・衣通郎姫を入内させるが、皇后の不興を買い、藤原宮(奈良県橿原市)に住まわせる。

8年2月(419年3月)、衣通郎姫が皇后の嫉妬を理由に茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移る。

天皇は遊猟にかこつけて郎姫の許に行幸を続けたが、10年(421年)皇后に諌められ、その後の茅渟行幸は稀になった。

24年6月(435年7月)、皇太子の木梨軽皇子と同母妹の軽大娘皇女の近親相姦が発覚。
軽大娘皇女を伊予国に配流(→衣通姫伝説)。

42年1月(453年2月)、崩御。
新羅王はこれを悲しみ、弔使を送る。
『古事記』『旧事紀』に78歳、『愚管抄』『神皇正統記』に80歳、北野本『日本書紀』に81歳(一本68歳)とする。

允恭天皇豪族出身説

允恭天皇の名には奇妙な点が存在する。
すなわち、雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)に「宿禰」という皇族(王族)らしからぬ敬称が混ざっていることである。
宿禰(足尼とも書く)の称号は4世紀から6世紀にかけて、しばしば(王族ではない)有力豪族の名に下接して使われていた(例:野見宿禰・武内宿禰・多加利足尼など)。
このことから、允恭天皇も元来は葛城(奈良県御所市)出身の地方豪族で、反正天皇の崩後に王位を簒奪したのではないかと見る説が存在する。
その傍証として、ワケ号を負う履中・反正とは根本的に異質な名であることや、この2天皇から病気を理由に愚か者として軽蔑されていて、即位が円滑に行われなかったという所伝、当時の有力豪族たる蘇我・葛城氏の系譜に、武内宿禰の子として若子宿禰という人物の存在が伝えられ、時代が重なること、さらには、倭王済(允恭)と倭王珍(反正に比定される)の血縁関係を記さない『宋書』の問題などが挙げられる。

陵墓・霊廟

恵我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)に葬られた。
同陵は、大阪府藤井寺市国府一丁目にある国府市野山古墳(前方後円墳・全長228m)に比定されている。

[English Translation]