光孝天皇 (Emperor Koko)

光孝天皇(こうこうてんのう、天長7年(830年) - 仁和3年8月26日(887年9月17日) 在位:元慶8年2月23日(884年3月23日) - 仁和3年8月26日(887年9月17日))は、第58代の天皇。

諱は時康(ときやす)。

仁和帝(にんなのみかど)、小松帝(こまつのみかど)とも。

藤原氏は、この帝の治世で初めて関白を出した。

系譜

仁明天皇の第三皇子。
母は贈太政大臣藤原総継(ふさつぐ)の娘、澤子。

兄弟には、文徳天皇、宗康親王、人康親王、本康親王、源多、源光がいる。
また嵯峨源氏の源是茂を養子としている。

略歴

幼少より太皇太后橘嘉智子の寵愛を受ける。
16歳で父・仁明天皇の御前にて元服して四品親王となり、以後中務卿・式部卿・相撲司(別当)・大宰帥・常陸国及び上野国太守と親王が歴任する官職をほぼ全てを歴任し、53歳のときに一品親王となって諸親王の筆頭となる。

陽成天皇が藤原基経によって廃位されたのち55歳で即位。
『徒然草』には即位後も炊事を自分でしたとある。
藤原基経を関白にし政務を執らせた。
即位と同時に皇子を多く臣籍降下させたが、病を得たため仁和3年8月25日に子宇多天皇(さだみ)を親王に復し、翌8月26日に立太子させた。
同日に崩御し、定省親王が宇多天皇として践祚した。

宮中行事の再興に務めるとともに諸芸に優れた文化人でもあったとされる。
和歌・和琴などに秀でともされ、桓武天皇の先例に倣って鷹狩を復活させた。
また、親王時代に相撲司別当を務めていた関係か即位後相撲を奨励している。
晩年は政治改革と親王時代の住居であったとされる宇多院の近くに勅願寺創建を計画するも実現を見ぬままに終わり、後を継いだ宇多天皇の「寛平の治」及び仁和寺創建に継承されることになる。

『日本三代実録』にある「天皇少(わか)くして聡明、好みて経史を読む。
容止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛曠、九族を親愛す。
性、風流多く、尤も人事に長ず」と評されている。

830年(天長7年)、生誕
常陸太守、中務卿、上野太守など歴任
876年(貞観18年)、式部卿
882年(元慶6年)、一品親王
884年(元慶8年)、即位
887年(仁和3年)、崩御

在位中の元号

元慶
仁和

陵墓・霊廟

御陵は、小松山陵(後田邑陵:のちのたむらのみささぎ)。

小倉百人一首にとられる。

君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ(きみがため はるののにいでて わかなつむ わがころもでに ゆきはふりつつ)

[English Translation]