具平親王 (Imperial Prince Tomohira)

具平親王(ともひらしんのう、康保元年6月19日(964年8月4日) - 寛弘6年7月28日(1009年8月21日))は、第62代村上天皇の第七皇子。
母は代明親王(醍醐天皇皇子)女・麗景殿女御荘子女王。
通称後中書王、または千種殿・六条宮。
異母兄弟に冷泉天皇・円融天皇。

略歴

康保2年(965年)、親王宣下。
同5年(968年)5月に父村上天皇が崩御、7月に母荘子女王が出家する。
貞元_(日本)2年(977年)8月11日元服、三品に叙せられる。
兵部卿・中務卿を経て、寛弘4年(1007年)4月二品に叙される。
同5年(1008年)7月に母荘子女王が死去、翌年具平親王も後を追うように薨じた。
享年46。

人物

『栄花物語』で「麗景殿の七宮ぞおかしう、御心掟など少ながらおはします」とあるように幼少から文雅に秀でた人物で、詩歌管弦を始め書道・陰陽道・医術にも通じていた。
叔父の兼明親王(醍醐天皇皇子)が「前中書王」と呼ばれたのに対して、「後中書王」と称された。

橘正通・慶滋保胤に師事し(後に保胤は親王の邸宅千種殿の近隣に池亭を構えている)、大江匡衡や藤原為頼・藤原為時兄弟(紫式部の伯父と父)などとも親しく交流した。
藤原公任とは柿本人麻呂や紀貫之の歌の優劣を論じ合い、後の三十六人撰のきっかけとなったとされる。
親王作の詩歌は『拾遺和歌集』以下数多くの勅撰和歌集や『本朝麗草』『和漢朗詠集』『本朝文粋』などに撰集された。

親王の子女のうち、長女源隆姫(関白藤原頼通の正室)と三女せん子女王(関白藤原教通の正室)は子に恵まれず、次女敦康親王妃も一人娘藤原嫄子(頼通養女、後朱雀天皇中宮)が内親王二人しか残さなかったが、嫡男源師房の子孫は村上源氏として院政期に勢力を拡大した。
なお、『栄花物語』では頼通が三条天皇から内親王降嫁の話を持ちかけられた際、隆姫の行く末を案じた具平親王の怨霊が現れたと伝えている。

著作

『具平親王集』(散佚)

『弘決外典鈔』

『書写山性空上人伝』

[English Translation]