北白川宮能久親王 (Imperial Prince Kitashirakawanomiya Yoshihisa)

北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう、1847年4月1日(弘化4年2月16日 (旧暦)) - 1895年(明治28年)10月28日は、幕末・明治時代の皇族、陸軍軍人。

伏見宮伏見宮邦家親王の第9王子。
生母は堀内信子。
幼名は満宮(みつのみや)。
最後の輪王寺宮(りんのうじの みや)として知らる。

幕末

嘉永元年(1848年)8月、青蓮院宮の附弟となる。
嘉永5年、梶井門跡の附弟となる。
安政5年(1858年)10月、仁孝天皇の猶子となり、親王宣下。
この時、諱を「能久」と賜る。
安政6年11月、輪王寺宮慈性入道親王の附弟となる。
久邇宮朝彦親王を戒師として得度し、公現(こうげん)の法諱を称する。

慶応3年(1867年)5月、江戸に下って上野の寛永寺に入り、同月慈性入道親王の隠退に伴って三山管領宮(寛永寺貫主・日光輪王寺門跡・天台座主(正確には比叡山延暦寺座主)を兼ね、東叡大王ともいう)を継承した。
院号は「鎮護王院宮」、歴代門主と同じく「輪王寺宮」と通称された。
ただし能久親王は実際には比叡山延暦寺座主につく機会がなかったが、江戸時代においては延暦寺ではなく寛永寺が天台宗を管轄したため、彼が天台座主でなかったというのは正確でない。

慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いののち、公現入道親王は幕府の依頼を受けて東征大総督・有栖川宮熾仁親王を駿府に訪ね、新政府に前将軍徳川慶喜の助命と東征中止の嘆願を行う。
しかし、助命については条件を示されたものの東征中止は熾仁親王に一蹴された。
その後、寛永寺に立て篭もった彰義隊に擁立されて上野戦争に巻き込まれ、その敗北により東北地方に逃避した。
仙台藩に身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された(一説には俗名(諱)を「陸運(むつとき)」としたという)。

明治時代

明治元年(1868年)9月、仙台藩は新政府軍に降伏し、公現入道親王は京都で蟄居を申し付けられた。
明治2年(1869年)9月、処分を解かれ、明治3年(1870年)10月に伏見宮に復帰。
明治天皇の命により還俗し、幼名の伏見満宮(ふしみ みつのみや)と呼ばれた。
このとき上京を命じられ、同時に2年前に駿府で談判した縁故のある熾仁親王の邸に、ドイツ留学に出発するまでのあいだ同居する事となった。
明治5年3月、弟北白川宮智成親王の遺言により北白川宮家を相続。

明治3年(1870年)12月プロイセン王国に留学のため日本を離れる。
明治9年12月、ドイツの貴族の未亡人ベルタと婚約、明治政府に対し結婚の許可を申し出が、政府は難色を示し帰国を命じる。
帰国の直前に能久親王は自らの婚約をドイツの新聞等に発表したため大問題となった。
しかし結局明治10年7月に帰国し、岩倉具視らの説得で婚約を破棄、京都でまた謹慎することになる。

その後は陸軍で職務に励んだ。
1884年(明治17年)は陸軍少将、さらに1892年(明治25年)中将に昇進している。
また、獨逸学協会の初代総裁となり、後に獨逸学協会学校設立に尽力した。

1893年(明治26年)11月10日に第4師団 (日本軍)となる。
1895年(明治28年)、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征。
ところが現地でマラリアに罹り、台湾全土平定直前に台南県にて死去。

皇族としては初めての外地における殉職者となったため、陸軍大将に特進の後国葬に付され、豊島岡墓地に葬られた。
また国葬時より神社奉斎の世論が沸き起こり、台北に台湾神宮、終焉の地には台南神社が創建された。
また後に台湾各地に創建された神社のほとんどで主祭神とされた。
敗戦後にこれら台湾の神社はすべて破却されたため、現在は靖国神社にて祀られている。

親王家の庶子として生まれ、幼くして都を遠く離れた江戸の地で僧侶として過ごし、一時は「朝敵」の盟主となって奥州の地を転々とし、後には陸軍軍人として台湾平定の英雄とされ、異国の地で不運の死をとげた数奇な人生はヤマトタケルにたとえられた。

異説

暗殺説

「10月28日」説と「11月5日」説とがある。
10月28日に薨去したとする説は当時の公表された日付である。
戦闘作戦中だったため薨去は秘匿され、宮中における発喪が11月5日となった。
その後すぐ、親王は蕭壟(今 台南県佳里鎮)で暗殺されたのだという噂が流れる。

しかし、戦時中に限らず皇族の凶事がしばらく秘匿されるのは明治以前からの慣習であり、なにも能久親王が特別のことではなかった。
それゆえ、薨去の発表が実際の薨去日とずれていることを不審としてこれを暗殺の噂が流れた理由であるとする説がある。
ただしゲリラによる暗殺という理由で発喪の遅れが説明できるのかどうかは定かではない。

親王が率いていた台湾征討軍の主敵は、清国軍の残党で中国人勢力が二つあったが、両者ともに親王薨去の段階ではすでに大陸に引き上げていたあった。
暗殺の犯人は「抗日ゲリラ」「台湾遊撃軍」「生蕃土民兵」等、文献によっていろいろに表現されるが、実態は不詳である。

戦前の『姓氏家系大辞典』も10月28日薨去とする。
昭和版『皇族華族大鑑』(霞会編)では10月28日になっていたのを平成版の同書ではわざわざ11月5日に改訂している。
これは誤記とは考えにくいから、なにか拠る所があったのであろう。

「東武天皇」即位説

戊辰戦争中の慶応4年(1868年)、彰義隊に擁立された頃、または奥羽越列藩同盟に迎えられた頃、親王は東武皇帝あるいは東武天皇として皇位に推戴されたという説がある。
親王に常に従軍していた僧義観の日記からは、四月頃からすでに用語などは天皇扱いであったことが知られ、彰義隊に擁立された頃には践祚したか、少なくともその計画があったことが推測できる。

奥羽越列藩同盟に迎えられた頃に即位したというのは以下の研究による。

この説の先駆者は瀧川政次郎である(「日本歴史解禁」昭和25年)。
その後、武者小路穣の「戊辰役の一資料」(『史学雑誌』第61編8号、昭和28年)、鎌田永吉の「いわゆる大政改元をめぐって」(『秋大史学』14号、昭和42年)と続き、昭和56年、藤井徳行「明治元年 所謂「東北朝廷」成立に関する一考察」(「近代日本史の新研究1」)で詳細な研究がまとめられた。
佐々木克によると、奥羽列藩同盟の盟主となった輪王寺宮を天皇に推戴し年号を「大政元年」とする構想があったにすぎないとする。
これに対し、中山吉弘は輪王寺宮は即位して東武天皇と通称されて、年号は「延寿元年」だったという。
この説は北東北戊辰戦争に従軍した山本八十吉の話(『大館戊辰戦史』93頁)、斬殺された仙台使節の罪状書きに「尊氏の悪例」と書かれていた(『仙台戊辰史』)ことを根拠とする(中山吉弘編著『明治維新と名参謀前山清一郎』〔東京図書出版会、2002年 ISBN 4434013491〕を参照)。
直接的な史料としては俗に「東武皇帝の閣僚名簿」などと通称されるものがあり、現在3種類が知られる(蜂須賀家資料・菊池容斎資料・郷右近馨氏資料)。
「延寿」の年号はすでにこの年の四月頃から奥羽を中心に流布していたことが当時の新聞で確認できる。
「大政」は蜂須賀家資料と郷右近馨氏資料には即位は六月十五日(8月3日)とある部分でこの時すでに「大政」と改元されているかのように読めるが、菊池容斎資料では六月十六日に「大政」と改元したとある。

なお 「東武」という言葉の由来については輪王寺・寛永寺等を参照されたい。
還俗後の諱(俗名)は「陸運(むつとき)」としたという。

本件については次の書籍がある:
『明治元年 所謂「東北朝廷」成立に関する一考察」藤井徳行(『近代日本史の新研究1』所収、学文社、1981年)
「戊辰戦争に消えたもう一人の「天皇」東武皇帝」逸見英夫(『天皇の伝説』オルタブックスシリーズ001、メディアワークス編、主婦の友社、1997年)
『東武皇帝の実像ー戊辰の歴史に埋もれたもう一人の天皇』山陰久志(『別冊歴史読本 皇位継承の危機 皇室典範改正に向けて皇統の本義に迫る!』新人物往来社、2005年5月25日号)
『彰義隊遺聞』、森まゆみ著、新潮社、2004年。

血縁

山内容堂の長女光子と結婚。
離婚後、島津久光の養女能久親王妃富子(実父伊達宗徳)と再婚。
子に、竹田宮恒久王(長男)、北白川宮成久王(三男)、小松輝久(四男)などがいる。

[English Translation]