天智天皇 (Emperor Tenchi (Tenji))

天智天皇(てんちてんのう/てんじてんのう。
男性。
推古天皇34年(626年)- 天智天皇10年12月3日(672年1月7日)。
第38代天皇。
国風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと/あまつみことさきわけのみこと)。
諱は葛城(かづらき/かつらぎ)。
生前は葛城皇子(かづらきのみこ/かつらぎのみこ)と呼ばれていたと思われる。
一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/なかのおおえのみこ)として知られる。
「大兄」とは皇太子の意で、「中大兄」は「次の皇太子」を意味する語。

概観
舒明天皇の第二皇子。
母は宝皇女(のちの皇極天皇)。
皇后は異母兄・古人大兄皇子の娘・倭姫王。
中臣鎌足らと謀り、クーデターを起こして蘇我入鹿を殺害し、叔父・孝徳天皇を即位させ、自身は皇太子となった。
そして大化という元号を制定し、様々な改革を行なった(大化の改新の中心人物、乙巳の変)。
また、有間皇子などのちのちクーデターを起こしそうな勢力を罠に嵌めて死刑とした。

百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し、百済復興を図った。
百済救援を指揮するために筑紫に滞在したが、661年、斉明天皇が崩御(死去)した。
その後、長い間皇位に即かず称制したが、663年、白村江の戦いで大敗を喫した後、大津市へ遷都してそこで即位した。
白村江の戦以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した。
又、冠位もそれまでの十九階から二十六階に制度改革などを行なっている。
また、670年には我が国最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成させている。

天智天皇は、第一皇子・大友皇子に皇位を継がせたかったと日本書紀は伝える。
しかし、天智の死後に起きた壬申の乱において 弟・大海人皇子(天武天皇)が大友皇子に勝利して即位した。
以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く。
称徳の死後、天智の孫・白壁王が光仁天皇として即位し、それ以降は天智系統となる。

大海人皇子から額田王を奪ったので、罪滅ぼしとして(自分の)娘4人を大海人皇子の元に妃として送り込んだと言われている。

略歴
推古34年(626年) - 誕生
皇極4年6月14日(645年7月12日) - 立太子
斉明7年7月24日(661年8月24日) - 称制
天智7年1月3日(668年2月20日) - 即位
天智10年12月3日(672年1月7日) - 46歳で死去
(『扶桑略記』では病死説の後一説として「一云 天皇駕馬 幸山階鄕 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」とあり山中で行方不明になったとされることから天武天皇側による暗殺説もある)

天智天皇が長く即位しなかったことは、7世紀中葉の政治史における謎の一つである。
このことについて議論されている説がいくつか存在する。

天武天皇を推す勢力への配慮。
即ち、従来定説とされてきた、天武天皇は天智天皇の弟であるというのは誤りで、皇極天皇が舒明天皇と結婚する前に生んだ漢皇子であり、彼は天智天皇の異父兄であるとする説に基づくものである。
確かに、『日本書紀』の天智天皇と一部の歴史書に掲載される天武天皇の享年をもとに生年を逆算すれば、天武が年長となってしまう。
しかし、同一史料間には矛盾は見られず、8~9歳程度の年齢差を設けている史料が多い。
これに対しては『「父親が違うとはいえ、兄を差し置いて弟が」ということでは体裁が悪いので、意図的に天智の年齢を引き上げたのだ』との主張があるが、『「日本書紀」に見える、天智の年齢16歳は父舒明天皇が即位した時の年齢だったのを間違えて崩御した時の年齢にしてしまった。
だから、本当の生年は本朝皇胤紹運録等が採用している614年だ。
』との反論、『古代においては珍しくなかった空位(実際、天武の前後に在位していた天智・持統も称制をしき、直ちに即位しなかった。
)の為に誤差が生じたのだ。
』との反論、また「日本書紀」と指摘されているその他歴史書は編纂された時代も性質も異なる為、同一には扱えないとの意見もある。
(「天武天皇年齢」の項も参照の事)

乙巳の変は軽皇子(孝徳天皇)のクーデターであり、中大兄皇子は地位を追われたという説。
近年中大兄皇子と蘇我入鹿の関係が比較的良好であり、基本政策も似ていることが指摘されている。
そうなると中大兄皇子が入鹿を殺害する動機がなくなる。
また、日本書紀の大化の改新の記述には改竄が認められることから、この説が唱えられるようになった。
また、この説では皇極天皇の退位の理由や入鹿以外の蘇我氏がクーデター後も追放されていない理由など、その他の疑問点も説明できるため注目を浴びている。

天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説。
これは、『日本書紀』に記載された孝徳天皇が妻の間人皇女(天智の同母妹)に当てた歌に彼女と天智との不倫関係を示唆するものがあるとするものである。
異母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻は許されるが、同母兄弟姉妹間でのそれは許されなかったのが当時の人々の恋愛事情だったが、里中満智子作の天上の虹では実際に関係があった解釈がなされ、説得して伯父の軽大王(孝徳天皇)に嫁がせた後も関係を持った事をたまたま有間皇子に見られ、激怒した彼に叱責された場面等が見られる。

斉明天皇の死後に間人皇女が先々代の天皇の妃として皇位を継いでいたのであるが、何らかの事情で記録が抹消されたという説である。
これは『万葉集』において「中皇命」なる人物を間人皇女とする説から来るもので、「中皇命」とは天智即位までの中継ぎの天皇であるという解釈出来るという主張である。
もし間人皇女=「中皇命」とすれば、なぜ彼女だけが特別にこうした呼称で呼ばれる必要性があったのかを考えられるが、斉明天皇だとする説もあり、必ずしも確証は無い。

政治史という性質・史料の制約などもあり、証明は困難ではあるが、考古学的成果との連携などとも含め、今後の研究の進展が待たれる。


万葉集に4首の歌が伝わる万葉歌人でもある。
小倉百人一首でも平安王朝の太祖としての敬意が張られ、冒頭に以下の歌が載せられている。

秋の田の かりほのいほの苫を粗み わが衣手は露にぬれつつ

万葉集からも以下の一首。

香具山は畝傍を愛しと耳成と相争ひき神代よりかくなるらし古へもしかなれこそうつせみも褄を争ふらしき

[English Translation]