天皇制 (Tennosei (Emperor System) in Japan)

天皇制(皇室制度)(てんのうせい/こうしつせいど)は、天皇を君主又は象徴とする国家体制。
特に天皇を元首又は象徴とする近代以降の国家体制(近代天皇制)を指すこともある。
大日本帝国憲法(明治憲法)では天皇を元首とし、また日本国憲法では天皇を日本国の象徴であり日本国民統合の象徴として位置付けている。
明治後期から敗戦までは天皇制などと表現することは不敬な表現であり、国体(=くにがら、くにぶり/漢書成帝紀)とよばれた。
現在も皇室支持層からは忌避される表現である。

概要

「天皇制」という用語は「君主制」を意味するドイツ語のMonarchieの和訳とされ、本来はマルクス主義者が使用した造語であった。
1922年、日本共産党が秘密裏に結成され、「君主制の廃止」をスローガンに掲げた。
1932年のコミンテルンテーゼ(いわゆる32年テーゼ)は、共産主義革命を日本で行うため日本の君主制をロシア帝国の絶対君主制であるツァーリズムになぞらえて「天皇制」と表記し、天皇制と封建階級(寄生地主)・ブルジョワジー(独占資本)との結合が日本の権力機構の本質であると規定した。
第二次世界大戦が終結するまで「天皇制」は共産党の用語であり、一般には認知されていなかったが、現代では共産党と関係なくマスメディア等一般にも使用されている。
ただし、天皇制という語の由来からこれを忌避して皇室という表現もよく用いられ、中にはあえて国体と戦前によく使われた表現を用いる人も根強く存在する。
歴史学者の間では天皇が国家統治機構の前面に登場する近代以前の国家体制に適用することに対して批判もある。

以下、古代以来の天皇と政治体制との関わりを中心に解説する。

古代

歴史学上、天皇家は古墳時代に見られたヤマト王権の「大王 (ヤマト王権)(あめのしたしろしめすおおきみ)」(あるいは「大王(おおきみ)」)に由来すると考えられている。
3世紀中期に見られる前方後円墳の登場は統一政権の成立を示唆しており、このときに成立した大王家が天皇家の祖先だと考えられている。
大王家の出自については、弥生時代の邪馬台国の卑弥呼の系統を大王家の祖先とする説、大王家祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。
当初の大王は軍事的な側面だけではなく、祭祀的な側面も持っていたと考えられる。

8世紀になると中国の政治体制に倣った律令制が整備され、天皇を中心とした中央集権制が確立し、親政が行われた(古代天皇制)。
このとき歴代天皇に漢風諡号が一括撰進された。
律令制が確立した当初において、政治意思決定に天皇が占める位置は絶対的なものとされていたが、9世紀ごろから貴族層が実質的な政治意思決定権を次第に掌握するようになっていった。
10世紀には貴族層の中でも天皇と強い姻戚関係を結んだ藤原氏(藤原北家)が政治意思決定の中心を占める摂関政治が成立した。
11世紀末になると天皇家の家督者たる太上天皇が実質的な国王(治天の君)として君臨し、政務に当たる院政が始まった。
藤原氏(摂関家)の地位は相対的に低下した。
天皇位にある間は制約が多かったものの、譲位して上皇となると自由な立場になり君主としての実権を得た。
院政を支えたのは中級貴族層であった。

中世

鎌倉に武家政権が成立すると、天皇・上皇を中心とした朝廷と将軍を中心とした幕府とによる二重政権の様相を呈した。
承久の乱では幕府側が勝利を収めた。
だが、天皇側の勢力もまだ強く、鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇が天皇親政を復活させた。
建武の新政参照。

室町幕府が成立すると南朝・北朝に分裂した。
その後続いた長い戦乱の中、天皇の権威は衰えながらも主に文化・伝統の継承者として存続していった。

近世

織田信長、豊臣秀吉も天皇の存在や権威を否定せず、政治に利用することによって自らの権威を高めていった。
江戸幕府のもとでも天皇の権威は温存されたが、紫衣事件などにみられるように、年号の勅定などを僅かな例外として政治権力はほとんどなかった。

幕府が学問に儒学の朱子学を採用したことから、覇者である徳川家より「みかど」が正当な支配者であるという尊王論が水戸徳川家(水戸藩)を中心として盛んになった。

尊皇攘夷論

江戸時代末になると尊皇攘夷論が興り、天皇は討幕運動の中心にまつりあげられた。
尊王攘夷論は、天皇を中心とした政治体制を築き、対外的に独立を保とうという政治思想となり、幕末の政治状況を大きく揺るがせた。
吉田松陰の唱えた一君万民思想は擬似的な平等思想であり、幕府の権威を否定するイデオロギーともなった。
しかし、尊皇攘夷派の志士の一部は天皇を「玉」(ぎょく)と呼び、政権を取るために利用する道具だと認識していた。

明治維新

江戸幕府が倒れ、明治の新政府は王政復古で太政官制を復活させた。
ヨーロッパに対抗する独立国家を創出するため、中央集権体制が創られた。
明治政府は不平を持つ士族の反乱や自由民権運動への対応の中から、議会制度の必要性を認識していった。
日本の近代化のためにも、国民の政治への関与を一定程度認めることは必要であり、近代的な国家体制が模索された。
モデルになると考えられたのは、ヨーロッパの立憲君主制であった。

なお、真の統治者が将軍ではなく天皇である事を知らしめるため、当時、九州鎮撫総監が“将軍はいろいろ変わったが、天子様は変わらず血統も絶えずに存在する”という趣旨の文書を民衆に配布している。
京都府もやはり天皇支配を周知すべく告諭を行なっている。
更に新政府は行幸をたびたび行なった。

大日本帝国憲法

大日本帝国憲法はプロイセン王国やベルギーの憲法を参考に作成されたと言われている。
伊藤博文は、ヨーロッパでは議会制度も含む政治体制を支える国民統合の基礎に宗教(キリスト教)があることを知り、宗教に替わりうる「機軸」(精神的支柱)として皇室に期待した。

天皇の地位

大日本帝国憲法第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められており、大日本帝国憲法第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」と、日本国憲法とは異なり明確に「元首」と規定されている。

天皇の大権

大日本帝国憲法において天皇は以下のように記されている。

天皇は国の元首にして統治権を総攬する。

天皇は軍隊を統帥権する。

天皇は帝国議会の協賛を以って立法権を行う。

国務大臣は天皇を輔弼する。

司法権は天皇の名に於いて法律により裁判所が行う。

立憲君主制

大日本帝国憲法の制定により、日本は立憲君主制になったとされる。
大日本帝国憲法を起草した伊藤博文も、天皇に絶対君主の役割を期待するようなことはなかった。
法文を素直に解釈すると、大日本帝国憲法においての天皇は大きな権力を持っていたように読めるが、明治以降も、天皇が直接命令して政治を行うことはあまり無かった。
この点について「君臨すれども統治せず」という原則をとる現代の日本やイギリスなどの君主と実態においては近しい存在であったという意見もある。
しかしながら重要な政治的局面で影響力を行使することもあったため異なるという意見もある。
大日本帝国憲法下の天皇の法的位置付けについては憲法学上さまざまな論争がなされてきた。

統帥権

衆議院において政府に反対する勢力が多くを占めることを予想して、貴族院 (日本)に衆議院と同等の権限を持たせている。

実際に政治を運営するのは、天皇でなく元老や内閣(藩閥政府)の各大臣である。
行政権は国務大臣の輔弼により天皇が自ら行うものとされた。
大日本帝国憲法では、内閣の大臣は天皇を輔弼するもの(総理大臣も他の大臣と同格)と規定された。
しかし、最終的な政治決断を下すのは誰か、という点は曖昧にされていた。
対外的には、天皇は大日本帝国皇帝であるが実際の為政者は内閣としていた。
内閣は憲法ではなく内閣官制で規定されており、内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるものの対等な地位とされた。

この構造の欠陥が昭和に入ってから野党や軍部に大きく利用されることとなった。
「軍の統帥権は天皇にあるのだから政府の方針に従う必要は無い」と憲法を拡大解釈して軍が大きな力を持つこととなった(権力の二重構造、統帥権干犯問題)。
軍部が天皇直隷を盾に独走・政府無視を続けて、もはや統制できない状況になるケースもあった。
二・二六事件の際は昭和天皇が激怒し、「自ら鎮圧に行く」とまで主張したため、反乱軍は鎮圧された。
また、終戦の際、ポツダム宣言の受諾・降伏を決定することは総理大臣にも出来ず、天皇の「聖断」を仰ぐ他なかった。
しかし、天皇は立憲君主としての立場を自覚していたため、上御一人(最高権力者)であってもこの2例を除いて政治決定を下すことはなかった。
こうした政治的主体性の欠如した統治機構を、政治学者の丸山眞男は「無責任の体系」と呼んだ。

なお、明治以降から終戦までの天皇制は従来の天皇制と異なるとして、絶対主義的天皇制、近代天皇制という語が用いられることもある(天皇制ファシズム参照)。

日本国憲法

連合国軍最高司令官総司令部は占領政策上、天皇制が有用と考え、日本国憲法に象徴としての天皇制(象徴天皇制)を存続させた。
天皇制は昭和天皇の各地への行幸や明仁結婚などのイベントを通して大衆に浸透し、一定の支持を得るに至っている。
大衆の支持を基盤にした戦後の天皇制を大衆天皇制と呼ぶこともある。

憲法学会の学説では、日本国憲法下の現行体制を立憲君主制とは捉えず、また天皇は元首ではないとするのが通説であるが、実質的に元首であるという見解を示す説もある。
しかし諸外国は、日本を天皇を元首とした立憲君主国とみなしており、日本政府も事実上天皇を元首として取り扱っている。

日本政府の公式見解は以下の通りである。

(日本を)立憲君主制と言っても差し支えないであろう。

(天皇を)元首と言って差し支えないと考える。

戦前の論評

「日本の失敗を天皇制のせいだと非難はしても、日本の成功に関して天皇制を褒めることはしなかったのが戦後歴史家たちであるが、これと異なり、明治知識人たちは日本の進歩の功を天皇に帰しはしても、その短所を天皇のせいにはしなかった」という指摘が明治時代と戦後の天皇制に関する論評の違いについてなされている。

皇室擁護派の意見

天皇の世界征服による世界平和の実現「世界最終戦を経て、全人類が天皇を現人神(あらひとがみ)として信仰し、天皇の霊力によって世界を統一するべきである。」

大日本帝国陸軍参謀であった石原莞爾は、「人類が心から現人神(あらひとがみ)の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である。」と主張した。
「我らの信仰に依れば、人類の思想信仰の統一は結局人類が日本国体の霊力に目醒めた時初めて達成せられる。更に端的に云えば、現人神(あらひとがみ)たる天皇の御存在が世界統一の霊力である。しかも世界人類をしてこの信仰に達せしむるには日本民族、日本国家の正しき行動なくしては空想に終る。」とも主張した。

皇室批判派の意見

事実上存在しない。
そもそも戦前・戦中の天皇は主権者にして統治者であり、批判は許されなかった(絶対君主制)。
不敬罪も参照。

戦後の論評

第二次世界大戦が終わると、共産主義や近代政治学(前記の丸山眞男ら)の立場などから天皇制批判が数多く提議された。
1950年代から1960年代には、共産主義者を中心に天皇制の廃止を訴える意見もあった。
昭和天皇崩御の際、テレビ朝日の『朝まで生テレビ!』で天皇制の是非について取り上げられた。
しかし、これ以降、この問題を積極的に取り上げるマスメディアはほどんどない。

日本共産党は2004年に綱領を改正し、元首化・統治者化を認めないという条件の下、天皇制の是非については主権在民の思想に基づき国民が判断すべきである、という趣旨に改めた。

各種の世論調査では、象徴天皇制の現状維持を主張する意見が多数であり、現在のところ象徴天皇制は日本国民に支持されている制度であると言える。

皇室擁護派の意見

「思想取締りの秘密警察は現在なお活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する。……さらに共産党員であるものは拘禁を続ける……政府形体の変革、とくに天皇制廃止を主張するものは、すべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕する」 内務大臣山崎巌、1945年10月。

「天皇制の下に他国とは趣の異なったデモクラシーの運用が行われねばならぬ」(安岡正篤・1945年12月)。

「天皇を現人神と仰ぎ奉り皇国を毒する内外一切の勢力を打滅せん事を期す」「大日本帝国憲法の復活」「核武装による皇軍再建」(大日本殉皇会・1961年設立)。

「天皇制の下に日本民族の主体性を把握」(治安確立同志会・1952年設立)。

「日本の皇室の系図は、まっすぐに神話時代に遡りうる。これは、ギリシャで言えば、アガメムノンの子孫が、ずっと今もギリシャ王であり、イギリスで言えばアルフレッド大王の直系の子孫が、まだ王様である状態に近い感じで、外国人には驚天動地の現実である」(渡部昇一 1990年6月)。

皇室批判派の意見

「天皇をたゞの人間に戻すことは現在の日本に於て絶対的に必要」(坂口安吾・1946年6月)。

「天皇制が侵略戦争をはじめた」(宮本百合子・1949年2月)と述べている。

オウム真理教の日本シャンバラ化計画(オウム国家の樹立)

「シヴァの化身で大宇宙の聖法の具現者たる麻原彰晃が神聖法皇として全権を掌握する祭政一致の絶対君主制国家である。」
「オウム国家樹立に伴い、神道に基盤におく皇室は当然の如く廃止され、新たに葛城等の姓を与えて民籍人とする。代わって麻原一族が皇族となる。(既に自身の長男・次男に皇子なる称号を授与していた)。」
「日本という国名は、天皇と密接に繋がっており、オウム国家を表すものとしては相応しくない。よって以下の国号に変更するのが望ましい。真理国、オウム国、神聖真理国、太陽寂静国。」。

天皇制絶対主義

天皇制絶対主義とは、講座派による日本近代における近代天皇制の体制を定義した言葉。
「絶対主義的天皇制」とも言われる。

明治維新後の政治体制を、絶対王政とみなし「絶対主義天皇制」と規定したのは、主に唯物史観を取り入れた左派の歴史学者である。
この場合、明治維新から第2次世界大戦までの日本の政治体制は絶対主義であり、明治維新はブルジョワ的市民革命ではなく、不十分な改革であったと評価される、社会経済史理論の一形態である。

これに対して、「自由主義史観」では、歴史解釈は「類似」し、「平行」する現象の存在により成立するので、幕府が外交権・貿易権を有した江戸時代がすでに絶対主義体制であったと考えられる、としている。

また、啓蒙専制君主と比較して論じる者や、明治維新を市民革命と比較する視点もある。

[English Translation]