女系天皇 (Female-line Emperor)

女系天皇(じょけいてんのう)とは、日本において母のみが皇統に属する天皇を指す呼称であり、また、「母系天皇」と称されることもある。
実際にはこの理由のみで即位した天皇は歴史上一度も存在しない。

語句の類似から、単に女子の天皇を指す女性天皇と混同されることも多いが、天皇家の血筋についての「女系天皇」と、天皇個人の性別についての「女性天皇」とは異なる概念である。
その天皇自身が男か女かという性別とは関係がなく、概念上女系男性天皇と女系女性天皇の両方が存在しうる。

『古事記』、『日本書紀』やその他歴史書の表向きの記載によれば、日本の皇統は初代神武天皇から現在の第125代今上天皇まで男系の血筋のみで続いてきたとされる(いわゆる「万世一系」、ただし信憑性については諸説あり、高群逸枝などの民俗学者は古代が母系制であったことを主張している)。
万世一系の立場からは、女系天皇は即位しても神武天皇以来の皇統に属さず、その結果として日本史上初の王朝交代が生じる、ということになる。

女系天皇

「天皇の男系子孫のみが皇位を継承できる」というのは、明治期にそれまでの継承経緯とされるものを元に成立したものである。

一般に女性天皇は過去に8人10代存在するとされ、その内の6人8代は6世紀末から8世紀後半に集中するが、いずれも天皇または皇子を父に持つことは事実である。
また、未婚(生涯独身)か天皇・皇太子の元配偶者(未亡人、再婚せず)かのいずれかであったとされている(下掲系図を参照)。
当時も、皇族女子が非皇族男子と結婚すれば必ず皇籍を離れねばならず、その間に生まれた子が皇位を継ぐことはなかったとされる。
女性皇族と非皇族男子との間の子に皇位継承権がなかったとの事実も、あったとの事実もまた確認されていないが、当時女性皇族を母に持つ人間は「宮腹」と呼ばれ、普通の貴族より高貴な存在と目されていた。
また、欽明から推古、斉明にかけての系譜にも少なからず改ざん・造作が行われたとの説もあり、系譜自体も慎重な検討が必要であるとする説もある。

それ以前の皇統については、折口信夫の主張する中天皇論等を考慮すれば、女系天皇(純然たる女系あるいは男系でなく双系という意見もある)であった可能性も少なくないとの説もある。

明治以前は、天皇が在位していない期間に天皇として役割を果たした神功皇后を天皇とみなしていた。
ほかにも、飯豊皇女や春日山田皇女なども政治を司ったという意味で天皇ではなかったかの考え方もある。
さらに徹底して、折口信夫の中天皇あるいは民俗学者がいうヒメ・ヒコ制で歴史を整理すれば、『古事記』・『日本書紀』の矛盾の多くが解決し、巨大古墳の被葬者の治定も容易に定まることになるとする意見もある。

なお、第38代天智天皇、第40代天武天皇、第42代文武天皇など女性天皇の子が即位した例もあるが、その子の父親すなわち女性天皇の夫もまた天皇・皇太子である(下掲系図を参照)。
また、歴史学界からは相手にされない説であるが、鎌倉時代の『一代要記』、南北朝時代の『本朝皇胤紹運録』に記載の天武の年齢に基づくと、天武は天智より4歳年長であると解釈できることから、一部の研究家により第40代天武天皇の父親は第34代舒明天皇でないとする仮説(佐々克明、小林恵子、大和岩雄ら)が提唱されており、その場合父親が誰であろうと母親が第37代斉明天皇であったことが皇位継承の条件であったことになるとの主張もあるが、これは仮説であり正式なものとはされていない。
しかしこの説によるならば、その系譜から第38代天智天皇らも男系ではなく女系の天皇と見なすこともできる。
『古事記』、『日本書紀』にはさまざまな造作が加えられているとされるが、その問題の1つには天皇が男系で継承されてきたように記した点である。
古代、氏族としての帰属は父系を原則としていたのは事実としても、生活習慣は基本的に母系制であり、家の継承が常に父系的に行われていたとは考えられないのではないだろうか、ということである(その後の時代も婿養子という制度は残されている)。

現在の日本においては、結婚した夫婦は民法上どちらかの姓を名乗り、その子もその姓を名乗ることとなっているが、現状でそのほとんどが男子(父)の姓を名乗っている。
姓をもって家の継承と見なすならば国民においても男系継承が一般的であるといえるが、婿養子あるいは娘の子が跡を継ぐことも少ないながら存在し、かつての女系継承の残滓ともいえるものも見受けられる。

男系男子から皇族女子への「婿入り」

過去において、見ようによっては「婿入り」と見られる事例が少なくとも3例ある。

1つは第26代の継体天皇の場合であり(記紀による)、彼は越前(現在の福井県)もしくは近江(滋賀県)に住んでいた応神天皇の5世孫(曾孫の孫)とされており(それまでの天皇とは血のつながりがなく王朝交代となったとの説が存在するが、少なくとも推古天皇期には応神天皇子孫であったとの系譜伝承があったことも近年の研究から明らかになっている。継体天皇の項参照。)、第25代武烈天皇が死去した後、直系に女子はいたが男子がいなかったため地方から迎えられて天皇となった。
第26代継体天皇にはすでに后がいて、男子も少なくとも2人(後に第27代安閑天皇・第28代宣化天皇の2天皇となる)いたが、畿内に入ってから武烈の姉妹である手白香皇女と婚姻して即位し、後の第29代欽明天皇をもうけた。
また、安閑・宣化の2天皇も同じようにそれぞれが武烈の姉妹を娶っている。

もう1つは第49代光仁天皇の場合で、彼は第38代天智天皇の男系の孫であるが、父親は皇位継承権を持った親王、第38代天智天皇の子志貴皇子であった。
彼は女性天皇である第48代称徳天皇の姉妹であり、姉妹の父親である第45代聖武天皇の皇女井上内親王を娶っており、他戸親王をもうけていた。
第46代孝謙天皇(称徳天皇の重祚)が退位し、譲位した相手方は、舎人親王の子第47代淳仁天皇(淡路廃帝)であったが、淳仁天皇は女性皇族を妃に迎えてはいなかった。
淳仁天皇は孝謙上皇によって廃され、孝謙上皇が重祚した称徳天皇が独身のまま崩御した。
天武天皇直系の男子がいなくなった時に天智天皇直系の男子である光仁天皇が擁立され、他戸親王が年少でありながら皇太子となった。
しかし間もなく母井上内親王の謀反による廃后とともに他戸親王も廃太子となり、皇太子は、光仁天皇と百済王族の末裔の娘高野新笠との間に生まれた桓武天皇、後の第50代桓武天皇となった。

3例目の第119代光格天皇の場合。
彼は閑院宮典仁親王の第6王子であったが、直系の第118代後桃園天皇が死去したときに皇子がいなかったため、急遽後桃園天皇の養子となった上で即位したが、長じて、後桃園天皇のただ一人の皇女欣子内親王を中宮に立てている。
ただし、欣子内親王の子である親王・内親王は夭折し皇位を継いではいない。

男系の継続に関する疑い

天皇は万世一系とされているが、それに関する疑義があるとされる。
第26代の継体天皇で血筋が一度途絶えているとする説があり、壬申の乱、南北朝時代など一系ではなかったとの説などである。
これを元に男系が継続した万世一系とは言えないという主張である。
詳しくは万世一系の項を参照。

女系天皇の前例とされるもの

「女系」論の立場からすると、第44代元正天皇は母親である第43代元明天皇から皇位を譲られており、母親のみが天皇である。
父親・草壁皇子は皇太子であったが即位しておらず、天皇である母親から皇位を継承している事から、元正天皇は女系天皇であるという説である。
また元正天皇は男系を辿れば天武天皇の孫に当たる3世皇族であるが、即位前から母親の元明天皇の血筋により内親王とされていたらしい。

元正天皇が母親に天皇を持つ女系天皇であったことは確かだが、同時に父親から皇統をたどることのできる男系天皇でもあり、男女双系天皇であると考えるのがふさわしい。
ただしそれは、多くの男系天皇とされている諸天皇にもあてはまる。

元正天皇への継承は、幼かった首皇子(後の聖武天皇・第42代文武天皇の皇子)の即位が前提であったとする説がある。
元正天皇即位当時、首皇子は14歳であり「首皇子が幼かったために中継ぎとして即位した」という説は成立しないとの説もある。(ただ、当時の朝廷の動勢(長屋王や藤原不比等など)により、年齢的に即位は不安と見られたとの説もある。)また、元正天皇は母の元明天皇の子としてではなく、父である草壁皇子の子として即位しているが、草壁皇子自身も父に天武天皇、母に持統天皇をもつ男女双系天皇であった。

この問題について「男系」論の立場からすると、父親・草壁皇子は皇統に属する男系の男子の皇族であり皇太子でもあることから、元正天皇の皇位は父親が皇族だからであり元明天皇が天皇であったためではなく、女系ではないという説となる。
事実元正天皇は母元明天皇の子として即位したのではなく、草壁皇子の子として即位している。
また、元正天皇への継承は、幼かった皇太子首皇子(聖武天皇・第42代文武天皇の皇子・元明天皇の頃に立太子)の即位が前提であった。

また、この元明天皇の前例に則り、仮に女性皇族が即位しても夫が皇統に属する男系男子の旧皇族(旧宮家)であれば男系が維持されるという意見もある。

男系原理の由来

皇位継承を男系皇族のみに限定するという不文律が、日本でいつごろ、どのようにして成立したのかはよく分かっていない。
記紀やその他歴代天皇の故事を伝える歴史書にも、「なぜ男系でなければならないのか」という問題への回答は「そうあるべきであるから」というものばかりである。

娘に家の継承を認めないという中国を発祥として朝鮮経由で渡来した家父長的氏族制度の影響もあるだろうが、それだけですべてを説明することはできない。
中国の歴代王朝では男系女子の王や皇帝が一人も現れなかった(武則天は1代限りの新王朝の皇帝であった)が、朝鮮では新羅において男系女王が3人即位しているなど、日本と中国の間だけでなく、中国と朝鮮の間でも若干の相違があるためである。

旧皇室典範がはじめて男系の継承原理を成文法とし、現在の皇室典範もこれを踏襲したが、戦前も戦後も政府としての公式解釈は存在していない。
半官の逐条解説書『皇室典範義解』も、旧皇室典範第1条の男系継承規定について「皇家の成法」「不文の常典」であるとするのみである。

ただし多くの王朝がそうであるように、日本の皇統もまたこれまでに何度も皇族男子の不足から断絶の危機に直面している。
男系継承を固守するよりも女系を容認した方がはるかに容易な場合もあったのに、時の朝廷や幕府は常に男系継承の維持を選択してきた。

その理由は、記紀神話における「天壌無窮の神勅」に求めることができる。
すなわち「男系継承は神代、初代神武天皇以前から定められていた掟であり、一貫して続いてきた伝統である」という認識である。
そのため男系でない「万世一系の皇統に属さない女系天皇は天皇といえず、皇祖皇宗(アマテラスや歴代天皇の霊)からも天皇として認められない」という神話的な理由ではないかと考えられる。

このような視点から男系護持論者の中には、「女系天皇の容認論は、天皇制廃止論のための布石ではないか」と述べて女系容認論を非難する者もいる。
実際、女系を認めた場合男系で継承する王朝交代の原則に従い前述した通り次々と王朝が交代していくこととなり現皇室との関係は年を追って薄れていくことになり、あながち否定することもできない。

欧州王室との相違

ヨーロッパの王室は日本の皇室とは歴史的背景等が異なるので同列には並べられないが、ここに相違点を以下に挙げる。

かつてヨーロッパの多くの国では、王位を男系男子のみに継承させていた(男系女子を排除する点で日本と異なる)。
これは、サリカ法典やその影響を受けた部族法などにおける男子のみ土地を相続するという規定が、後世に王位継承法として援用されたためである。
キリスト教圏は一夫一妻制なので、どの国でも歴史上、男系男子の断絶により女系の王族が即位し、新たに王朝を開くということがしばしばあった。
そのため、少なく見積もってもほぼ1500年は確実に系譜を辿り得る日本の皇室のような王朝は、約800年にもわたってフランスを統治し、現在もスペインを統治しているカペー朝の男系一族を例外として存在しない。

ヨーロッパでは男系であれ女系であれ、代々王族同士(他国の王族ないしこれに準ずる有力貴族を含む)の間に生まれた嫡子のみに王位を継承させていた。
王族の国際結婚が盛んで、父が他国の王族であっても血縁は繋がっていることが多かったため、女系による王朝交代が円滑に行なわれたのだとする説もある。
しかし古来日本の皇室では、皇位を継承するためには父のみ皇族であればよく、皇族男子と藤原氏など臣民女子との間に生まれた子が即位した例はきわめて多い。
極端な例では、母が全くの庶民の出である第119代光格天皇なども存在する。
このような例は貴賎結婚に極めて厳格だったヨーロッパの王室ではあまり見られないことである。

神話の人物を祖先としているのは日本の皇室のみであるとされることがあるが、古代ヨーロッパでは同様にギリシャ神話や北欧神話の神々を祖先とする王族がいた。
これらが現在に続いていないのは、王族が滅亡したり、キリスト教に改宗することでそれぞれの神話を捨てたからであり、皇室のケースが特異なわけではない。

20世紀後半に入ってから、ヨーロッパの君主国のほとんどが男系女子や女系(父は臣民でもよい)にも王位継承資格を与えるようになったが、このような改革の多くは「男女平等」をその理由とし、必ずしも男系男子の不足とは関係がない。
ただし以前のように、嫡子が姉ー弟の場合は弟の継承権が先のままの所もある。
一例として、イギリス王室は直系男長子優先の継承順位であるため、継承順位は、エリザベス女王の第2子アン王女よりも、第3子ヨーク公の方が継承順位は上で、ヨーク公が4位、アン王女は弟王子2人とその家族よりも下の10位である。

現代の皇室と女系天皇
皇室には1965年の秋篠宮文仁親王誕生から2006年の悠仁親王誕生までの41年間、皇室から男子が生まれなかったため、将来において皇統が断絶するのではと危惧されていた。
そのため、継承原理を改変して女系継承を容認すべきとする意見もあったが、時間的余裕がでたのではないか、とされている。
しかし、男系論者、女系論者とにも皇位継承問題と皇族についての議論を続けていくことで認識は一致している。

東宮家の愛子内親王や秋篠宮家の眞子内親王、佳子内親王などは、いずれも父方のみを辿って天皇に行き着く男系女子の皇族である。
しかし、彼女らが将来一般国民の男子と結婚して子を産めば、その子は性別が男であれ女であれ、父方のみを辿って天皇に行き着かないため女系となる(下掲系図を参照)。

[English Translation]