宸翰 (Shinkan)

宸翰(しんかん、宸筆、親翰)は、天皇自筆の文書。
中世以前の天皇の真跡の現存するものは数が少なく、国宝や重要文化財に指定されているものが多い。

国宝に指定されている宸翰

嵯峨天皇宸翰光定戒牒(延暦寺)
高倉天皇宸翰消息(仁和寺)
後鳥羽天皇宸翰御手印置文(水無瀬神宮)
後嵯峨天皇宸翰消息(仁和寺)
亀山天皇宸翰禅林寺御祈願文案(南禅寺)
後宇多天皇宸翰弘法大師伝(大覚寺)
後宇多天皇宸翰東寺興隆条々事書御添状(東寺)
後宇多天皇宸翰御手印遺告(大覚寺)
後宇多天皇宸翰当流紹隆教誡(醍醐寺)
後醍醐天皇宸翰四天王寺縁起(四天王寺)
後醍醐天皇置文(大徳寺)
後醍醐天皇宸翰天長印信(醍醐寺)
三朝宸翰(前田育徳会)(花園天皇、後醍醐天皇、伏見天皇宸翰を含む)
熊野懐紙(西本願寺)(後鳥羽天皇宸翰を含む)
熊野懐紙(陽明文庫)(後鳥羽天皇宸翰を含む)

聖武天皇宸翰‎

聖武天皇は奈良時代の能書家として光明皇后とともに有名であり、聖武天皇の宸翰と伝えられる書には以下のものがある。

雑集(ざっしゅう)(正倉院宝物)
聖武天皇の七七忌(四十九日)に光明皇后は先帝の冥福を祈って、珍宝、遺蔵品をまとめて東大寺東大寺盧舎那仏像に献納した。
この一巻もその一つで、「東大寺献物帳」所載の品である。
本文は中国六朝隋唐の仏教に関する詩文140数首を抄録したもので、白麻(はくま)素紙に楷書体で毎行18字、天地に横罫があり、全長30張(27×2135㎝)の長巻である。
奥書に「天平三年九月八日写了」とあり、天皇31歳の書である。
書風は王羲之の楽毅論(がっきろん)に通じ、チョ遂良風とも言われる。
なお、抄録された詩文は、いずれも中国ではすでに失われた詩文で、文学及び仏教資料的価値も高い。
聖武天皇の自筆として確実なものは、他に静岡・平田寺の「聖武天皇勅書」(国宝)中の「勅」の1字のみである。

賢愚経(大聖武)(東大寺ほか蔵)
荼毘紙(だびし、抹香を漉き込んだ料紙)に書かれた奈良時代の大文字の写経である。
古来聖武天皇の筆と伝承され、字粒が大きいことから「大聖武」と称して珍重されるが、上記「雑集」とは異筆である。
東大寺の戒壇院に伝来したもので、東大寺、東京国立博物館、前田育徳会、白鶴美術館に巻子本として所蔵されるほか、古筆手鑑などに断簡がみられる。

嵯峨天皇宸翰

嵯峨天皇は、空海・橘逸勢とともに三筆と称される能書家であり、嵯峨天皇の宸翰と伝えられる書道には以下のものがある。

光定戒牒(こうじょうかいじょう)(延暦寺蔵)
最澄の弟子の光定 (僧)が、弘仁14年(823年)4月14日、延暦寺で菩薩戒を受けた時、朝廷から給せられる通知を執筆したものである。
宸翰と断定できるのは、光定が撰した伝述一心戒文の中に「厳筆徴僧が戒牒を書し給ひ、恩勅之を賜ふ」と記されていることによる。
楷行草を交えた荘重な書風で、空海に学んだものと推定される。

哭澄上人詩(こくちょうしょうにんし)(個人蔵、青蓮院伝来)
弘仁13年(822年)最澄の入寂を悲しんだ嵯峨天皇の五言排律(12句60字)の詩で、宸翰と伝えられるが、自筆原本でなく写しであるとする説もある。
草書体で気品に富み、大師風(空海の書風)が認められる。

李嶠百詠断簡(りきょうひゃくえいだんかん)(御物)
唐の詩人李嶠の百二十詩を行書で書写した断簡(だんかん、切れ切れになった文書)である。
用筆は変化に富み、純粋な唐風の書である。
古来嵯峨天皇宸翰と伝えるが、現代の書道史では異筆とみなされている。

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