小倉宮聖承 (Oguranomiya Seisho)

小倉宮聖承(おぐらのみや せいしょう、生年不詳 - 嘉吉3年5月7日 (旧暦)(1443年6月4日)))は、南北朝時代 (日本)の第99代、南朝 (日本)最後の第4代天皇である後亀山天皇の孫で、小倉宮恒敦の子。
小倉宮家2代。
俗名、泰成?。
聖承は出家後の名前。

北朝 (日本)称光天皇が嗣子なく没し皇統が断絶したが、称光天皇の父の後小松上皇が北朝の傍流である伏見宮家から彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとした。
このことをきっかけに正長元年(1428年)7月6日、これに不満を持った聖承は伊勢国国司で南朝側の有力者である北畠満雅を頼って居所の嵯峨 (京都市)から逃亡する。
満雅はこの当時幕府と対立していた鎌倉公方足利持氏と連合し、聖承を推戴して反乱を起こす。
しかし、持氏が幕府と和解したことにより頓挫、同年12月21日に満雅は伊勢国守護・土岐持頼に敗れ戦死する。

その後も聖承は伊勢国に滞在したまま抵抗を続けるが、弟の北畠顕雅が幕府と和睦したため、聖承の処遇が問題となり、結局聖承は京に戻されることとなる。
このときの条件は聖承が「息子を出家させること」幕府は「諸大名から毎月3千疋を生活費として献上させる」であった。
このため、当時12歳の聖承の息子は出家し小倉宮教尊と名乗った。
足利義教の猶子となり勧修寺に入る。
しかし、幕府からの生活費献上の約束は守られることが無く、京に戻った後の聖承の暮らしは困窮の極みだったようである。

その後永享6年(1434年)2月に戒師を海門承朝(長慶天皇皇子)が勤め聖承は出家。
この時点から「小倉宮聖承」を名乗る。
嘉吉3年(1443年)5月7日に聖承は死去。
唯一の遺児と思われる教尊も禁闕の変への関与が疑われ隠岐島流罪。
後に消息不明となり、小倉宮家は断絶する。

[English Translation]