履中天皇 (Emperor Richu)

履中天皇(りちゅうてんのう、仁徳天皇24年(336年)? - 履中天皇6年3月15日 (旧暦)(405年4月29日))は、第17代の天皇(在位:履中天皇元年2月1日 (旧暦)(400年3月12日) - 同6年3月15日(405年4月29日))。
名は大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)、大江之伊邪本和気命。
中国の『宋書』に見える「倭の五王」中の倭王讃に比定する説がある(応神天皇もしくは仁徳天皇とする説もあり)。
また古事記には「壬申年正月三日」に64歳で崩ずとの記事が見え、これが正しければ、在位期間が427年から432年となり、生年が逆算して369年という事になるが、定かではない。

名称

大兄伊射報本和気命(おおえのいざほわけのみこと)- 『播磨国風土記』

系譜

仁徳天皇の第一皇子。
母は葛城襲津彦の女・磐之媛(いわのひめ)。

皇居

都は磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや、奈良県桜井市池之内に稚桜神社がある)。

略歴
仁徳天皇87年1月(399年2月)、仁徳天皇崩御。
住吉仲皇子が皇位を奪おうとして叛するが、弟の瑞歯別皇子(後の反正天皇)に命じてこれを誅殺させ、履中天皇元年2月(400年3月)に即位。
2年(401年)、蘇我満智(まち)・物部伊莒弗(いこふつ)・平群木菟(つく)・葛城円(つぶらのおおおみ)らを国政に参画させた。
4年8月(403年9月)、諸国に国史(ふみひと)と呼ばれる書記官を設置し、国内の情勢を報告させた。
6年正月(405年2月)に蔵職(くらのつかさ)と蔵部を興し(『古語拾遺』には内蔵を興すとある)、3月(405年4月)に病気のため稚桜宮で崩御した。
『書紀』に70歳、『古事記』に64歳、『神皇正統記』に67歳。

即位前の試練

古事記では、即位前に婚約者の黒媛と、大江之伊邪本和気命本人だと偽って通じた住吉仲皇子の反乱を受け、難波高津宮から石上神宮へ逃げている。
(黒媛とは、羽田矢代宿禰の娘、葦田宿禰の娘の2説があり、履中5年に神の祟りで急死したと言われるが定かでない。)
その途中、少女に会って、伏兵が居るので、遠回りしろと教えられ、石上神宮で以下の歌を詠んだ。

大坂に遇うや嬢子を道問へば 直には告らず 当岐麻路を告る(おおさかにあうやおとめをみちとへば ただにはのらず たぎまじをのる)

直とは直越えのこと。
直越えとは、後世、生駒山を越える道(直越道)が有名であったが、埴生坂(羽曳野丘陵)から越えようとしているので、現在の穴虫峠付近と考えられる。
穴虫峠の手前で出会った乙女に道を聞いたのだが、簡単に越えられるはずの直越え(穴虫峠)ではなく、遠くて、標高も高い竹之内峠越えをしろと教えられた。

穴虫峠(二上山の北)は標高約150mに対して、竹之内峠(二上山の南)は標高約300m、しかも数km南に遠い。
逃げ込もうとしていた石上神宮は両峠の北東方向にあるのだから、回り道は2倍以上になる。
住吉仲皇子反乱の襲撃を受けたとき、難波宮で酒に酔って寝ており、部下に馬にやっと乗せて貰ったくらいだから、恐らく二日酔いで、反乱に驚いていた身には堪えたであろう。
これは、まさに王権を受け継ぐための試練であった。

(出典例:古事記歌謡 大久保正 昭和56年7月10日 講談社 P174)

陵墓・霊廟

百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)に葬られた。
大阪府堺市石津ヶ丘町にある上石津ミサンザイ古墳(前方後円墳・全長365m)に比定されている。

[English Translation]