平季長 (TAIRA no Suenaga)

平 季長(たいら の すえなが、生年未詳 - 寛平9年7月22日 (旧暦)(897年8月23日)は、平安時代前期の貴族。
平高棟(高棟王)の4男で、桓武天皇の曾孫にあたる。

貞観 (日本)13年(871年)に渤海使が来航すると、式部省であった季長はその接待にあたる掌渤海客使に任じられて、大内記都良香とともにこれに対応した。
陽成天皇の元慶年間に兵部省兼伊勢国国司となり、元慶の乱後に近衛府兼陸奥国守に遷る。
菅原道真と早くから親交があり、阿衡の紛議の際にはともに意見書を提出している。
その後、宇多天皇・源能有の側近として重用され、東大寺俗別当・弁官・弁官を歴任する。
特に寛平7年(895年)に能有が五畿内諸国別当に任じられると、山城国問民苦使に任じられて、権門による土地兼併が激しい同国の実情を調査して地方行政の改革と農民救済策をまとめた。
宇多天皇-源能有によって推進された寛平の治において、季長は菅原道真・藤原忠平とともにその実務を担った貴族官僚であったと考えられている。

寛平8年(896年)に宇多天皇の従四位下蔵人頭(弁官・山城国兼務)に任じられ、翌年の醍醐天皇即位後も留任した。
宇多上皇が新帝に出した『寛平御遺誡』において、季長は「深熟公事(公務に精通した人物)」として、藤原時平・菅原道真・紀長谷雄とともに重用すべき人物として挙げられている。
だが、醍醐天皇即位の9日後に急死してしまう。

菅原道真から「宮中要須之人也、聖主所照不更具陳」(『菅家文章』)と評価された季長の死は、前月の源能有の死に続くもので、宇多天皇(上皇)に大きな打撃を与えた。
また、2人の相次ぐ死が菅原道真を結果的に政界の矢面に立たせることとなり、昌泰の変の遠因となった。

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