後白河天皇 (Emperor Goshirakawa)

後白河天皇((ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。
諱は雅仁(まさひと)。
譲位後は後白河院として院政を行うが、二条天皇や高倉天皇との対立により、院政停止に追い込まれることもあった。

系譜

鳥羽天皇の第四皇子。
母は、藤原公実(きんざね)の娘、藤原璋子。

略歴

即位

大治2年(1127年)、鳥羽天皇の第四皇子として生まれる。
藤原宗忠は「后一腹に皇子四人は、昔から稀有の例だ」と評した。
保延5年(1139年)12歳で元服、二品に叙される。
久寿2年(1155年)近衛天皇が死去すると、美福門院の養子となっていた二条天皇即位までの中継ぎとして、立太子しないまま29歳で即位した。
守仁はまだ年少であり、尚且つ存命中である実父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためで、父鳥羽院からは皇位の器ではないとみなされていた。
この頃、田楽・猿楽といった庶民の雑芸が上流貴族の生活にも入り込んでいて、後白河も今様(俗謡)を好み熱心に研究していた。
『梁塵秘抄口伝集』に十余歳の時から、人を大勢集めて今様を歌ったことが記されている。
今様の遊び相手には、源資賢・藤原季兼がいた。

保元の乱・平治の乱

保元元年1156年、鳥羽法皇が死去すると保元の乱が発生した。
この戦いでは後見の藤原信西が主導権を握り、後白河は形式的な存在だった。
乱後、信西は政権の強化に尽力し、保元新制を発して荘園整理令・大寺社の統制・内裏再建などを行う。

保元3年(1158年)、後白河は守仁に譲位(二条天皇)。
これは当初の予定通りであり「仏と仏との評定」(『兵範記』)、すなわち美福門院と信西の協議によるものだった。
父の所領の大部分は、美福門院と八条院に譲られたため、後白河は藤原頼長から没収した所領を後院領にして経済基盤とした。

二条の即位により、後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも信西と藤原信頼の間に反目が生じるなど、朝廷内は三つ巴の対立の様相を見せるようになった。

この対立は平治元年(1159年)に頂点に達し平治の乱が勃発する。
12月9日夜、院御所・三条殿が、信頼・源義朝の軍勢による襲撃を受けて幽閉される。
結果、信西は殺害され信頼が政権を掌握するが、二条親政派と手を結んだ平清盛が武力で信頼らを撃破、後白河院政派は壊滅する。
後白河は乱の最中、幽閉先を脱出して仁和寺に避難していた。
この時、争奪の対象になったのは二条天皇であり、後白河は信西が殺害され政治力を失っていたことから、ほとんど省みられていなかった。

乱後、後白河は二条親政派の中心だった藤原経宗・藤原惟方の逮捕を清盛に命じる。
経宗・惟方は、信頼とともに信西殺害の首謀者であり、その責任を追及されたものと推測される。
これ以降、後白河院政派と二条親政派の対立は膠着状態となる。

二条親政派との対立、平氏との提携

この頃、後白河は統子内親王の女房・小弁(平滋子)を寵愛した。
応保元年(1161年)9月、滋子は後白河の第七皇子(憲仁)を出産するが、その誕生には「世上嗷々の説(不満・批判)」(『百錬抄』)があった。
やがて憲仁立太子の陰謀が発覚し、平時忠・平教盛・藤原成親・藤原信隆らが二条天皇により解官され、後白河の政治介入は停止された。
翌年には二条親政派の重鎮・経宗が帰京を許され、時忠・源資賢が流罪となった。
政治から排除された後白河は、蓮華王院の造営に没頭する。
後白河は落慶の供養会に二条の行幸を熱望したが、二条が全く関心を示さなかったため「ヤヤ、ナンノニクサニ」(『愚管抄』)と恨みを抱いたという。

永万元年(1165年)二条天皇が死去すると、後白河は清盛と手を結び、憲仁親王の立太子を実現させた。
仁安3年(1168年)には六条天皇を退位させて、憲仁を即位させる(高倉天皇)。
嘉応元年(1169年)に出家し、法皇となる。
滋子は皇太后となっていたが後白河の出家にともない、院号宣下を受けて建春門院となった。
院御所・法住寺殿には建春門院御願の最勝光院が造営された。
この頃の後白河と清盛の関係は良好で、嘉応2年(1170年)福原にある清盛の別荘で宋人を引見して日宋貿易に興味を示し、承安元年(1171年)12月には清盛の娘・平徳子が高倉天皇に入内する。

寺院勢力への対応

嘉応元年(1169年)、尾張の知行国主・藤原成親の目代が日吉神社の神人と闘争事件を起こしたため、延暦寺は成親の流罪を要求して強訴する。
後白河は成親を擁護して、平重盛に大衆の防御を命じる。
平氏は、清盛が天台座主・明雲を導師として出家するなど延暦寺と友好的であり、重盛は積極的に動こうとしなかったため、後白河は延暦寺の圧力に屈して成親流罪を認める。
しかし大衆が帰山した途端に態度は一変、事件の対応にあたった時忠・平信範の流罪を命じた。
延暦寺と平氏は反発して再び強訴が起こり、清盛が福原から上洛して武士が召集されるなど、情勢は一挙に不穏となった。
後白河は事態の不利を悟り、成親の解官を決定した。

承安2年(1172年)12月、伊賀国住人が春日社神人と闘争を起こし神人が殺害されたため、興福寺の大衆は伊賀国住人の処罰を要求して、春日社の神木を奉じて強訴した。
伊賀国住人は重盛の郎党だった。
この時は大衆の不満を摂関家が慰撫したようである。
重盛が裏で手を回し工作したと推測される。
承安3年(1173年)6月、興福寺と延暦寺の対立から、延暦寺傘下の多武峯が興福寺大衆の攻撃により炎上する。
後白河は南都15ヶ寺の荘園・末寺を没官することを宣言、興福寺は激怒して強訴する。
後白河は、興福寺権別当・覚珍を派遣して大衆を説得し、事態は沈静化する。

たび重なる強訴の要因の一つには、後白河の園城寺に対する露骨な優遇があった。
後白河が出家した際の儀式では、戒師以下8人の僧全員が園城寺の門徒だった。
同じ天台宗でありながら園城寺と激しく対立する延暦寺では不満が渦巻き、各地では延暦寺傘下の神人と院近臣の国司の間で抗争が絶えなかった。

平氏との対立、院政停止

安元3年(1177年)建春門院の死去によって、後白河と平氏の関係は悪化の兆しを見せていたが破局には至っていなかった。
そのような中で、白山事件が勃発する。
事件は加賀守・藤原師高の目代が白山と抗争して堂舎を焼き払ったことから始まった。
白山は延暦寺の末寺であり、師高の父は後白河の近臣・西光だった。
延暦寺の大衆は師高の流罪を求めて強訴を起こすが、後白河は強硬な態度をとり重盛に防御を命じる。
重盛の軍兵の射た矢が、神輿に当たるなどの不手際により非難の声が巻き起こり、後白河はやむなく師高を流罪にする。

西光は報復として、天台座主・明雲の処罰を主張。
後白河も同意したため、明雲は天台座主を解任され所領も没収、伊豆に配流となった。
延暦寺の大衆が明雲の身柄を奪回したため、後白河は延暦寺の末寺・荘園の没収を図り、延暦寺武力攻撃を平経盛に命じる。
経盛は親平氏勢力の延暦寺と戦端を開くつもりはなく出兵を拒否、重盛・宗盛も清盛の指示に従うと称した。
業を煮やした後白河は、清盛を福原から呼び出して攻撃を要請する。
清盛は出兵を承諾し、延暦寺攻撃が決定する。

ところが、6月1日に西光が逮捕され院近臣による平氏打倒の陰謀が発覚した(鹿ヶ谷の陰謀)。
関係者は一網打尽にされ、西光・成親は殺害された。
実際に陰謀計画が進行していたかは定かでないが、院と平氏の対立が激しくなっていたことを物語る。

後白河に難は及ばなかったが、治承2年(1178年)安徳天皇の立太子を認めざるを得なくなる。
不満を抱いた後白河は、治承3年(1179年)になると平氏の勢力を削減するため圧力を加える。
白河殿盛子が死去すると、盛子の管理していた摂関家領を没収、重盛が死去するとその知行国・越前を没収した。
さらに親平氏派の近衛基通をさしおいて松殿基房の子・松殿師家を権中納言に昇進させた。
これに対して清盛は、11月14日にクーデターを起こす。
後白河は鳥羽殿に幽閉され、院政も停止される(治承三年の政変)。

源平合戦

治承4年(1180年)、皇子の以仁王が諸国に令旨を発し、京都で源頼政と平氏打倒の軍を挙げた(以仁王の挙兵)。
この挙兵は失敗に終わるが、高倉宮以仁王の平氏討伐の令旨を受け取った全国の源氏が呼応し、木曾の源義仲(木曾義仲)、伊豆へ流罪となっていた義朝の子の源頼朝などが挙兵すると、後白河法皇はこれを支援する。

養和元年(1181年)、それまで後白河法皇に代わって院政を敷いていた高倉上皇が崩御すると、ほかに院政をとることのできる上皇がいない為、後白河院政が再開される。
また清盛が病死すると平氏の勢力は急激に衰え、法皇の発言権は拡大した。
寿永2年(1183年)7月には、木曾義仲が叡山と連携して京都に攻め込むと、平氏は安徳天皇、建礼門院らを奉じ、三種の神器と共に西へ落ち延びていった。
叡山に避難していた法皇は京へ戻ると、上洛した木曾義仲・源行家らを迎えて平氏追討の院宣を下す。

高倉上皇の皇子から新帝を擁立する際には、義仲は以仁王の子の北陸宮を推挙するが、後白河は寵姫の高階栄子の影響でこれを退けて尊成親王(後鳥羽天皇)に決定し神器が無いために緊急措置として院宣により即位させた。
9月、鎌倉に本拠を置いた頼朝が密奏を行い、東国の支配権を認めさせると、義仲は京で孤立する。
頼朝に義仲追討を命じ、頼朝の弟の源義経に命じてこれを討たせた。
さらに平氏討伐の命令を出し、文治元年(1185年)、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡した。

鎌倉との対立

すると今度は、頼朝と法皇の間で確執が発生し、義経に頼朝討伐の院宣を下す。
しかし義経が敗れ、今度は頼朝の抗議と兵糧攻めを受けると、後白河法皇は頼朝に義経追討の院宣を下す。
文治5年(1189年)、義経が殺されると、頼朝より奥州藤原氏追討の院宣が願いだされるが、これを拒否した。

しかし、頼朝が奥州藤原氏を攻めると、事後承諾の形で奥州藤原氏追討の院宣を下し、後に頼朝は上洛して法皇と和解。
ただし、頼朝より願い出された征夷大将軍への就任と九条兼実の関白就任は断固拒否する。

そのため頼朝と兼実は法皇の死を待つことで一致し、建久3年(1192年)3月に法皇が66歳で死去すると、頼朝は7月に征夷大将軍を拝命、鎌倉幕府を開いた。

人物

『平治物語』によれば「今様狂い」と称されるほどの遊び人であり、「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と同母兄・崇徳上皇に酷評されていたという。
後に『梁塵秘抄』を撰する。
今様の歌い過ぎで、3回ものどをこわしたと言う話も伝わっている。
また、自分の政権維持のために、平家や木曾義仲ら武士勢力を利用しては、その存在が邪魔になると討伐という形で使い捨てを続けた事から、源頼朝からは「日本国第一の大天狗」と評された(ただし、近年この大天狗の表現は、院近臣の高階泰経を指したのではないかとする説も出ている)。

『玉葉』に記された藤原信西の後白河評は「和漢の間、比類少きの暗主」。
その暗君のわずかな徳として「もし叡心果たし遂げんと欲する事あらば、あえて人の制法にかかわらず、必ずこれを遂ぐ」(一旦やろうと決めたことは制法など無視して、必ずやり遂げる人)としている。
ただし、これは九条兼実が清原頼業から聞いた話として、『玉葉』寿永3年(1184年)3月16日条に書きとめたもので、信西が本当にそう言ったか定かでなく、兼実は後白河嫌いで通っているのでそのまま鵜呑みにはできない。

兼実は「鳥羽法皇は普通の君であるが、処分については遺憾であり、すべてを美福門院に与えられた。
今の後白河法皇は処分に関する限り遙かに鳥羽法皇より勝れている。
人である賢愚など、簡単に評価できないものだ」とし、その死去にあたっては「法皇は度量が広く慈悲深い人柄であられた。
仏教に帰依された様子は、そのために国を滅ぼした梁の武帝以上であり、ただ延喜・天暦の古きよき政治の風が失われたのは残念である。
いまご逝去の報に接し、天下はみな悲しんでいるが、朝夕法皇の徳に慣れ、法皇の恩によって名利を得た輩はなおさらである」形式的な悲しみの言葉を使いながらも、仏教帰依を非難し、近臣の悲しみを嘲笑している。

このように後白河には悪評以外に評価が無く、悪評が後を絶たないが、これは、後白河が自らの院政によって武家勢力との共存を図り、結果として次から次にあたかも手駒を捨てていくかのごとく武士を利用していった事が大きな要因といえる。
その意味では平清盛も源義仲も、そして源義経も後白河の犠牲者であった。
事実、義経の要請に応じて源頼朝追討の院宣を発しておきながら、その頼朝に義経追討の院宣を発している。
さらに、頼朝より奥州藤原氏追討の院宣が願いだされてもこれを拒否し、頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした事を知ると、事後承諾の形で奥州藤原氏追討の院宣を下している。
このように自分の都合でしか事象を解釈できず、かつて敵視していた人物を一転して賛美したり、或いはその逆で支援していた人物を排除したりと、態度が180度逆転する事が非常に多かった。
いかに世の常とはいえ、これは元首としては致命的な欠陥と言わざるをえないものである。
これでは、父鳥羽法皇が後白河を皇位の器ではないとみなしたのは、当然と言える(無論、崇徳、近衛、後白河の3代28年に渡り鳥羽法皇が院政を敷いていた事を、考慮に入れねばならない)。
そして、後白河院政は結果として武家政権の基盤を磐石な物にするとともに、朝廷の政権基盤を大幅に弱体化させてしまったのである。

在位中の元号

久寿 (1155年7月24日) - (1156年4月27日)

保元 1156年4月27日 - (1158年8月11日)

諡号・追号

後白河院-譲位後の院政時の住居の名称による追号(白河天皇の次に当たるという意味に因む)。
明治年間以降は正式に後白河天皇と諡される。

行真法皇-退位・出家後に用いた戒名。

陵墓・霊廟

京都市東山区三十三間堂廻り町にある法住寺(ほうじゅうじのみささぎ)に葬られた。

登場作品
小説
井上靖『後白河院』
安部龍太郎『浄土の帝』
映画
『続源義経』(1956年 監督:萩原遼、演:泉田行夫)
テレビドラマ
新・平家物語 (NHK大河ドラマ)(1972年 NHK大河ドラマ)演:滝沢修
草燃える(1979年 NHK大河ドラマ)演:尾上松緑 (2代目)
源義経 (TBSドラマ)(1990年 東京放送)演:津川雅彦
源義経 (テレビドラマ 1991年)(1991年 日本テレビ放送網)演:平幹二朗
平清盛 (TBSドラマ)(1992年 TBS)演:高橋英樹 (俳優)
炎立つ (NHK大河ドラマ)(1993年~1994年 NHK大河ドラマ)演:中尾彬
義経 (NHK大河ドラマ)(2005年 NHK大河ドラマ)演:平幹二朗

[English Translation]