後醍醐天皇 (Emperor Go-Daigo)

基礎情報 天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう、正応元年11月2日 (旧暦)(1288年11月26日) - 延元4年/暦応2年8月16日 (旧暦)(1339年9月19日)は、第96代天皇。
諱は尊治(たかはる)。
1926年(大正15年)10月に詔書が出され、それまでの第95代から第96代天皇として皇統を書き換えられた。

生涯

後醍醐天皇は、大覚寺統の後宇多天皇の第二皇子。
生母は内大臣花山院師継の養女、談天門院・藤原忠子(実父は参議五辻忠継)。
正応元年11月2日 (旧暦)(1288年11月26日)に誕生し、乾元 (日本)元年(1302年)に親王宣下。
嘉元2年(1304年)に大宰帥となり、帥宮(そちのみや)といわれた。

即位

徳治3年(1308年)に持明院統の花園天皇の皇太子に立ち、文保2年2月26日 (旧暦)(1318年3月29日)に譲位によって神皇正統記、3月29日 (旧暦)(4月30日)に31歳という壮齢にて即位。
即位後3年間は父の後宇多法皇が院政を行った。
大覚寺統内部では当初より後醍醐天皇は傍流、中継ぎとして認識されており、その即位は兄後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王成人までという条件付のものであった。
この中継ぎという立場から後醍醐天皇の子孫への皇位継承、後醍醐天皇自身の治天の君就任は想定されておらず、後醍醐天皇は不満を募らせた。
それが、その裁定を下した鎌倉幕府への反感へとつながってゆく。

倒幕

正中 (元号)元年(1324年)、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して六波羅探題が後醍醐の側近日野資朝らを処分する正中の変が起こる。
この変では、幕府は天皇には何の処分もしなかった。
天皇はその後も密かに倒幕を志し、醍醐寺の文観や法勝寺の円観などの僧を近習に近づけ、元徳2年(1329年)には中宮の御産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、興福寺や延暦寺など南都の寺社に赴いて寺社勢力と接近する。
しかし、この頃から大覚寺統を支持する公家の間で天皇派と邦良親王派への分裂が見られ始め、後者を持明院統側や幕府が支持したために天皇側は窮地に立たされる。
そして邦良親王が病死した後には退位への圧力が一層強まる事となった。
元弘元年(1331年)、再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽動座を決断、三種の神器を持って御所を脱出した上で挙兵し笠置山 (京都府)(現・京都府相楽郡笠置町内)に篭城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。
これを元弘の変と呼ぶ。

流罪、そして復帰

天皇は翌元弘2年 / 正慶元年(1332年)隠岐島に流罪となり、幕府は邦良親王の次に予定されていた持明院統の光厳天皇を替わりに即位させる。
この時期、後醍醐天皇の皇子護良親王、河内国の楠木正成、播磨国の赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。
このような情勢の中、後醍醐は元弘3年 / 正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族の働きで隠岐島から脱出し、伯耆国船上山(現・鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。
これを追討するため幕府から派遣された足利尊氏(尊氏)が天皇方に味方して六波羅探題を攻略。
その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。

建武の新政

帰京した後醍醐天皇は光厳天皇の皇位を否定し、建武の新政を開始する。
また自分が所属する大覚寺統の嫡流である兄後二条天皇の遺族を皇太子に指名せず本来傍流であったはずの自分の皇子を後継者として指名し、自己の子孫による皇統の独占を企図した。
このため対立していた持明院統のみならず味方であるはずの大覚寺統内部からも敵対者を生むこととなった。

建武の新政は表面上は復古的であるが、内実は蒙古的な天皇専制を目指し、武家を排除した公家中心の政権運営を敷き、性急な改革、土地訴訟への対応の不備や恩賞の不公平、大内裏建設計画などその施策の大半が各方面、特に武士勢力の不満を呼び、また有名な二条河原の落書に観られるようにその無能を批判され、権威を全く失墜した。

足利尊氏の離反

建武 (日本)2年(1335年)に中先代の乱の鎮圧のため勅状を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えるなど新政から離反する。
後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は箱根・竹ノ下の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破る。
尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で体制を立て直し、光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都へ迫る。
楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが後醍醐はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる。
しかし、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れる。

南北朝時代

足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は持明院統の光明天皇を立て、建武式目を制定して正式に幕府を開く。
後醍醐天皇は京を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(奈良県吉野郡吉野町)の山中にて南朝を開き、京都朝廷(北朝 (日本))と吉野朝廷(南朝 (日本))が並立する南北朝時代 (日本)が始まる。
後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、後村上天皇を陸奥国へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。
しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年)8月15日 (旧暦)、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して死去した。
享年52(満50歳)。

摂津国の住吉行宮にあった後村上天皇は、南朝方の住吉大社の宮司の津守氏の荘厳浄土寺において後醍醐天皇の大法要を行う。
また、尊氏は後醍醐天皇を弔い、京都に天竜寺を造営している。

系譜

大覚寺統の後宇多天皇の子。
母は内大臣花山院師継の養女、談天門院・藤原忠子(実父は参議五辻忠継)。

論評

同時代では、早くも天皇側近の北畠親房が『神皇正統記』において保守的公家観から新政策への批判を加えている。

近世においては後醍醐天皇を不徳の君であるとする評価が定着し、徳川光圀によって編纂が開始された『大日本史』においては南朝を正統とする立場から後醍醐天皇を不徳とする認識が見られ、江戸時代には新井白石が『読史余論』において、王朝政治における累代の天皇の失徳が武家政権成立の過程であるとする歴史観の中で、後醍醐天皇をその末尾に位置付けている。

頼山陽の『日本外史』では後醍醐天皇批判の一方で即位直後の親政に関しては肯定的評価をしている。

側近

近衛経忠

万里小路宣房

北畠親房

吉田定房

日野資朝

日野俊基

千種忠顕

坊門清忠

四条隆資

洞院実世

文観

円観

諡号・追号・異名

後醍醐天皇は、延喜の治と称され天皇親政の時代とされた醍醐天皇の治世を理想としていた。
天皇の諡号や追号は通常死後におくられるものであるが、醍醐天皇にあやかって生前自ら後醍醐の号を定めていた。
これを遺諡といい、白河天皇以後しばしば見られる。
なお「後醍醐」は分類としては追号になる(追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。

崩御後、北朝では崇徳院・安徳院・顕徳院・順徳院などとのように徳の字を入れて院号を奉る案もあったが、生前の意志を尊重して南朝と同様「後醍醐」とした。
あるいは、その院号は治世中の年号(元徳)からとって「元徳院」だったともいう。

北朝を正統とする場合、「後醍醐は光厳天皇の治世期間をはさんで重祚した」とみなし、前半(元弘の変まで)を「元徳天皇(元徳院)」、後半(京都帰還・建武の新政から光明天皇即位まで)を「後醍醐天皇(後醍醐院)」とする案もあるが、これはあくまで私案である。

后妃・皇子女

皇后(中宮):西園寺禧子(1303-1333) - 西園寺実兼女

皇女

懽子内親王(1315-1361) - 光厳天皇妃

皇后(中宮):珣子内親王(1311-1337) - 後伏見天皇女

幸子内親王

女御:藤原栄子 - 二条道平女

宮人:遊義門院の一条局 - 藤原実俊女

世良親王(1312-1330)

静尊法親王

皇女

宮人(女院):阿野廉子(1301-1359) - 阿野公廉女

恒良親王(1325-1338)

成良親王(1326-1344)

義良親王(後村上天皇)(1328-1368)

祥子内親王 - 斎宮

惟子内親王

宮人:源親子(?-?)-源師親女

護良親王(1308-1335)

懐良親王(1329-1383)

満良親王

恒性

聖助法親王

法仁法親王(1325-1352)

玄円法親王

最恵法親王

知良王

尊真

無文元選(1323-1390)

宮人:藤原為子 - 二条為世女

尊良親王(1311-1337)

宗良親王(1312-1385)

瓊子内親王(1316?-1339)

欣子内親王

宮人:勾当内侍 - 源経資女

皇女

宮人:遊義門院の左衛門督局 - 御子左為忠女

皇女

宮人:民部卿三位 - 日野経光女?

妣子内親王

宮人:権中納言局

貞子内親王

宮人:平基時女

皇女

宮人:民部卿局

皇女 - 近衛基嗣室

宮人:山階実子

皇女

宮人:洞院公敏女

瑜子内親王

宮人:坊門局

皇女

宮人:権大納言三位局 - 二条為道女

皇女

宮人:大納言典侍 - 北畠師重女

宮人:勾当内侍 - 世尊寺経朝女

生母不詳

用堂尼(?-1396) - 東慶寺5世住持

皇子の読み

後醍醐の皇子の名には通字として「良」が用いられている。
その読みについては古くから、「なが」か「よし」かで議論があった。

「良」を「なが」と読む説

護良親王はかつて「もりなが」と読まれることが多かった。
例えば、護良を祭神とする鎌倉宮では「もりながしんのう」と読んでおり「もりよし」は「祭神の名前の読みとしては誤用である」との見解である。
これは、鎌倉宮は明治天皇の命令で創建された神社であり、社号を「鎌倉宮」、祭神を「護良親王(もりながしんのう)」と天皇の名において定めた経緯から「もりなが」との読みはゆるぎのないものである、というのが神社側の主張である。
また、鎌倉市二階堂にあり現在宮内庁が管理している「護良親王墓」に関しても大正4年の『陵墓要覧』のなかに「もりながしんのうはか」とのルビがあり、鎌倉宮と同じく「もりなが」と読んでいる。

これは一条兼良が記したと言われる『諱訓抄』に護良に「モリナカ」とルビが振ってあるのが根拠とされている。

そのほか、護良の弟である宗良親王を祭神とする井伊谷宮においても祭神の名を「むねながしんのう」と読んでおり「むねよし」とはしていない。
護良の弟である懐良親王を祭神とする八代宮においても祭神の名を「かねながしんのう」と読んでおり「かねよし」とはしていない。
護良の兄尊良親王・弟恒良親王を祭神とする金崎宮においても祭神の名を「たかながしんのう」「つねながしんのう」と読んでおり「たかよし」「つねよし」とはしていない。

以上、後醍醐の皇子を祭神とする4つの神社においては、いずれも「良」の字を「なが」と読んでいる。
これらの神社は、明治維新後、官幣社に列せられ、政府機関である神祇官の管理の下に置かれており、神祇官は、当時の研究水準を踏まえて「良」を「なが」と読むことで統一していたものと考えられる。

「良」を「よし」と読む説

しかし、近年の歴史学の研究成果によれば、

現存する最古の『諱訓抄』は、天和 (日本)元年(1681年)に写された写本であり、「モリナカ」のルビを実際に一条兼良が振ったものか根拠に乏しい。

同時代史料である「帝系図」写本に義良親王の名を「義儀」と誤記してあり、これは本来「儀義」であって「のりよし」と読んだものと推測される。

室町時代の制作である「人王百代具名記」に義良の名を「儀良」と記して「ノリヨシ」とふりがなしている。

『増鏡』の写本のうち世良親王に「ヨヨシ」尊良親王に「タカヨシ」とふりがなしたものがある。

などの史料的根拠が指摘され、現在では「良」を「なが」と読むことに否定的な考えが示されている。

在位中の元号

文保 (1318年2月26日 (旧暦)) - 1319年4月28日 (旧暦)

元応 1319年4月28日 - 1321年2月23日 (旧暦)

元亨 1321年2月23日 - 1324年12月9日 (旧暦)

正中 (元号) 1324年12月9日 - 1326年4月26日 (旧暦)

嘉暦 1326年4月26日 - 1329年8月29日 (旧暦)

元徳 1329年8月29日 - 1331年8月9日 (旧暦)

元弘 1331年8月9日 - 1334年1月29日 (旧暦)

建武 (日本) 1334年1月29日 - 1336年2月29日 (旧暦)

延元 1336年2月29日 - (1339年8月26日 (旧暦))

家臣
山東和泉

著作

『建武年中行事』 日本語の表記体系で記された有職故実書。
後世、朝廷で盛んに利用された。
不明な点が多い中世の朝廷儀礼について伝える史料の一つとしても著名。
『群書類従』公事部に収録されている。

陵墓・霊廟

陵墓は奈良県吉野郡吉野町吉野山にある如意輪寺内の円墳の塔尾陵(とうのおのみささぎ)である。
通常天皇陵は南面しているが、後醍醐天皇陵は北面している。
これは北の京都に帰りたいという後醍醐天皇の願いを表したものだという。
古典『太平記』によれば、後醍醐天皇は「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と遺言したと伝えられている。

また、明治22年(1889年)に同町に建てられた吉野神宮に後醍醐天皇が祀られている。
なお、全ての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。

さらに、後醍醐天皇が紫衣を許して官寺とした總持寺(神奈川県横浜市鶴見区 (横浜市))には、後醍醐天皇の尊像、尊儀などを奉安する御霊殿がある。
この御霊殿は、後醍醐天皇の600年遠忌を記念して、昭和12年(1937年)に建立された。

平泉澄『建武中興の本義』(至文堂、1934年9月 / 日本学協会、1983年5月)

建武義会編『後醍醐天皇奉賛論文集』(至文堂、1939年9月)

平泉澄『明治の源流』(時事通信社、1970年6月)

村松 剛『帝王後醍醐 「中世」の光と影』(中公文庫、1981年) ISBN 4-12-200828-X

網野善彦『異形の王権』(平凡社ライブラリー、1993年) ISBN 4-582-76010-4

森 茂暁『後醍醐天皇 南北朝動乱を彩った覇王』(中公新書、2000年) ISBN 4-12-101521-5

佐藤和彦・樋口州男 編『後醍醐天皇のすべて』(新人物往来社、2004年) ISBN 4-404-03212-9

登場作品

『太平記 (NHK大河ドラマ)』(NHK大河ドラマ)(演:片岡仁左衛門 (15代目))

沢田ひろふみ『山賊王』 - 南北朝時代 (日本)を描いた歴史漫画。
楠木正成も認める威厳ある天皇として描かれている。

朝松健『邪曲回廊』-異形コレクション第33巻【オバケヤシキ】(光文社、2005年)

光厳天皇の杖が生み出した『世界』に出現。
光厳天皇に対する恨みから活火山のように炎を撒き散らす生霊となり、光厳天皇の代役となった一休を追い回す。

[English Translation]