後鳥羽天皇 (Emperor Go-Toba)

後鳥羽天皇(ごとばてんのう、治承4年7月14日(1180年8月6日) - 延応元年2月22日(1239年3月28日); 在位:寿永2年(1183年)8月20日 - 建久9年(1198年)1月11日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて在位した第82代天皇。
諱は尊成(たかひら)。

系譜

高倉天皇の第四皇子、母は従三位坊門信隆の娘藤原殖子。
安徳天皇の異母弟。
後白河天皇の孫。

略歴

寿永2年(1183年)、平氏が源義仲の軍に京都から追い出された為、平氏とともに西走した安徳天皇の代わりに新たな帝を立てる必要が出てきた。
木曾義仲は、北陸宮を推挙したが、後白河天皇は、尊成親王を即位させる事に決めた。
高階栄子の進言があったという。

安徳天皇が退位しないまま、後鳥羽天皇が即位したため寿永2年(1183年)から平氏滅亡の文治元年(1185年)まで間、在位期間が2年間重複している。
三種の神器を安徳天皇とともに平氏が持ち去ったために神器が無い場合の緊急避難措置として後白河法皇の院宣により即位した。

建久3年(1192年)3月までは、後白河法皇による院政が続いた。
後白河法皇の死後、関白九条兼実の働きで源頼朝に征夷大将軍の称号が宣下され、鎌倉に幕府を開いた年でもある。
同7年(1196年)、源通親の娘に皇子が産まれた事で政変が起こり、九条兼実の勢力は朝廷から一掃され、兼実の娘・九条任子も中宮の位を奪われ宮中から追われた。

院政

建久9年(1198年)1月11日、土御門天皇に譲位し、以後、土御門、順徳天皇、仲恭天皇と承久三年(1221年)まで、3代23年間に渡り太上天皇として院政を敷く。
上皇になると殿上人を整理(旧来は天皇在位中の殿上人はそのまま院の殿上人となる慣例であった)して院政機構の改革を行うなどの積極的な政策を採って、台頭する鎌倉幕府に対しても強硬的な路線を採った。

承久の乱

承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は、時の執権北条義時追討の院宣を出し、畿内・近国の兵を召集して承久の乱を起こしたが、幕府の大軍に完敗。
わずか2ヶ月あとの7月9日、19万の大軍を率いて上京した義時の嫡男北条泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)に配流された。
父の倒幕計画に協力した順徳上皇は佐渡島に流され、関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐国に遷った。
これら三上皇のほかに、院の皇子雅成親王は但馬国へ、頼仁親王は備前国にそれぞれ配流された。
さらに、在位わずか3ヶ月足らずの幼帝仲恭天皇(当時四歳)も廃され、代わりに高倉院の孫、後堀河天皇が皇位に推挙され、その父守貞親王が院政を執ることになった。

崩御

隠岐に流される直前に出家して法皇となった後鳥羽上皇は、四条天皇代の延応元年(1239年)2月20日、配所にて崩御。
同年5月、顕徳院と諡された。
後高倉皇統の断絶によって後嵯峨天皇(土御門院皇子)の即位となった仁治3年(1242年)7月、院号が後鳥羽院に改められた。
歴代の天皇の中で諡が改められたのは後鳥羽院のみであり、かなり例外的と言える。

歌人として

後鳥羽院(ごとば-(の)-いん)は中世屈指にして史上有数の歌人であり、その歌作は同時代および後代に大きな影響を与えている。

院がいつごろから歌作に興味を持ちはじめたかは分明ではないが、通説では建久9年(1198年)一月の譲位、ならびに同8月の熊野行幸以降急速に和歌に志すようになり、正治元年(1199年)以降盛んに歌会・歌合などを行うようになった。
院は当初から、当時新儀非拠達磨歌と毀誉褒貶相半ばしていた九条家歌壇、ことにその中心人物であった藤原定家の歌風につよい憧れを持っていた。
正治2年(1200年)7月に主宰した正治初度百首和歌においては、式子内親王、九条良経、藤原俊成、慈円、寂蓮、藤原定家、藤原家隆ら、九条家歌壇・御子左家系の歌人に詠進を求めている。
この百首歌を契機に、院は藤原俊成に師事し、定家の作風に直接の影響を受けるようになり、その歌作は急速に進歩してゆく。
同年八月以降、正治後度百首和歌を召す。
対象となった歌人は藤原雅経、源具親、鴨長明、後鳥羽院宮内卿ら院の近臣を中心とする新人のグループで、この時期、院は熱心に新たな歌人を発掘し、周囲に仕えさせることで、後に新古今歌人群のなかにあって、九条家グループ、御子左家グループと鼎立する院近臣グループの基盤がここに整ったといえる。

二度の百首歌を経ていよいよ和歌に志を深めた院はついに勅撰集の撰進を思い立ち、建仁元年(1201年)七月には和歌所を再興する。
寄人は藤原良経、慈円、源通親、源通具、釈阿(俊成)、藤原定家、寂蓮、藤原家隆、藤原隆信、藤原有家(六条藤家)、源具親、藤原雅経、鴨長明、藤原秀能の十四名(最後の三名は後に追加)、開闔は源家長である。
またこれより以前に史上最大の歌合千五百番歌合を主宰。
当代の主要歌人三十人に百首歌を召してこれを結番し、歌合形式で判詞を加えるという空前絶後の企画であったが、この歌合は、新古今期の歌論の充実、新進歌人の成長などの面から見ても文学史上逸することのできない価値を持つ。
さらにこのような大規模な企画を経て、同年十一月にはついに藤原定家、藤原有家、源通具、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮の六人に勅撰集の命を下し、『新古今和歌集』撰進がはじまった。
同集の編集にあたっては、『明月記』そのほかの記録から、院自身が撰歌、配列などに深く関与し、実質的に後鳥羽院が撰者の一人であったとも言っても決して過言ではない。

また後生、新井白石が著した自叙伝「折たく柴の記」の書名は、後鳥羽院の御製
思ひ出づる折りたく柴の夕煙むせぶもうれし忘れ形見に(新古今和歌集巻第八『哀傷歌』)に由来する。

後世の評価

後白河法皇の死後は自ら親政及び院政を行ったが、治天の君として土御門天皇を退かせて寵愛する順徳天皇を立てその子孫に皇位継承させた事には貴族社会からは勿論、他の親王達からの不満を買った。
また三種の神器を欠いた即位の経緯も不評を買った。
そして実力的な裏付けの乏しい専制政治的な政策や無謀な討幕計画に対しては院の側近以外の貴族達は冷ややかな対応に終始した。
このため、承久の乱後においては、幕府の政治的影響力の拡大を差し引いても後鳥羽院に同情的な意見は少なく、『愚管抄』・『六代勝事記』・『神皇正統記』などは、いずれも院が覇道的な政策を追求した結果が招いた自業自得の最期であったと手厳しいものがあった。
これに対して、鎌倉幕府滅亡後には歌人としての後鳥羽院を再評価しようとする動きも高まった。
『増鏡』における後鳥羽院はこうした和歌をはじめとする「宮廷文化の擁護者」としての側面をより強調している。

諡号・追号・異名

隠岐配流から贈諡までの間は、隠岐院と呼ばれた。

御所焼・菊紋

刀を打つことを好み、刀工の鍛冶に好みの兵庫鎖拵えを打たせた。
また自らも刃紋を入れそれに十六弁の菊紋を入れた。
「御所焼」「菊御作」と呼ばれる。
天皇家の菊紋のはじまりである。

在位中の元号

寿永 (1183年8月20日) - 1184年4月16日

元暦 1184年4月16日 - 1185年8月14日

文治 1185年8月14日 - 1190年4月11日

建久 1190年4月11日 - 1198年1月11日)

陵墓・霊廟

天皇陵は、京都府左京区大原勝林院町に大原陵(おおはらのみささぎ)。

島根県隠岐郡海士町に隠岐海士町陵(おきあまちょうのみささぎ)と通称される火葬塚がある。

大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮に祭神として祀られている。

登場作品

草燃える(1979年 NHK大河ドラマ)演:遠藤義徳→尾上辰之助 (初代)
義経 (NHK大河ドラマ)(2005年 NHK大河ドラマ)演:三俣凱

[English Translation]