忠房親王 (Imperial Prince Tadafusa)

忠房親王(ただふさしんのう、弘安8年(1285年)? - 貞和3年(1347年)7月 (旧暦))は鎌倉時代の皇族。
順徳天皇皇孫源彦仁の子で母は従一位関白二条師忠の娘。
祖父の岩倉宮忠成王(順徳天皇第五皇子)は、四条天皇崩御後に皇位継承の最有力者と目されながらも鎌倉幕府によって阻止されて、岩倉宮の宮号を賜る。
親王は父彦仁がそうであるように親王宣下を受けるまでは源姓を名乗っており、源忠房とも。
従一位関白二条兼基の娘を妃とする。
王子には源彦善がいるが、四辻宮尊雅王及びその子源善成が実は忠房親王の王子であるとの説も存在する。
兄弟に承鎮法親王、守子内親王、玄覚がいる。

親王は後宇多天皇に寵愛され猶子となり、権中納言に取り立てられる。
その後親王宣下を受けるが、これが昨今の皇位継承問題 (平成)において臣籍に産まれた人物が皇籍についた事が旧皇族復帰を推す勢力に先例として重要視されている。

尚、猶子とは皇子に準じた扱いとする事だが、皇室について用いた始まりは『職原鈔』に忠房親王が後宇多院の猶子となす旨記された事に始まるという。
尤も言葉としては漢語であり『礼記』に見える。

[English Translation]