懐良親王 (Imperial Prince Kanenaga)

懐良親王(かねながしんのう/かねよししんのう、元徳元年(1329年)? - 弘和3年/永徳3年3月27日 (旧暦)(1383年4月30日))は、後醍醐天皇の皇子である。
母は二条為道の娘。
南北朝時代 (日本)、南朝 (日本)の征西大将軍であった。
このことから征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。
肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。

名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇皇子の読みを参照。

生涯
建武の新政が崩壊した後、後醍醐天皇は各地に自分の皇子を派遣し、味方の勢力を築こうと考えた。
延元元年/建武 (日本)3年(1336年)(時期については諸説あり)にまだ幼い懐良親王を征西大将軍に任命し、九州に向かわせることにした。
親王は五条頼元らに補佐されて四国伊予国忽那島(愛媛県松山市)へ渡り、当地の宇都宮貞泰や瀬戸内海の海賊衆である熊野水軍の援助を得て数年間滞在した。

その後、興国2年(1341年)頃に薩摩国に上陸。
谷山城にあって北朝 (日本)・室町幕府方の島津氏と対峙しつつ九州の諸豪族の勧誘に努める。
ようやく肥後国の菊池武光や阿蘇惟直を味方につけ、正平 (日本)3年(1348年)に隈府城に入って征西府を開き、九州経略を開始した。
この頃、足利幕府は博多に鎮西総大将として一色範氏、仁木義長らを置いており、これらと攻防を繰り返した。

正平5年(1350年)、観応の擾乱と呼ばれる幕府の内紛で将軍足利尊氏とその弟足利直義が争うと、直義の養子足利直冬が九州へ入る。
筑前国の少弐頼尚がこれを支援し、九州は幕府、直冬、南朝3勢力の鼎立状態となる。
しかし、正平7年/文和元年(1352年)に直義が殺害されると、直冬は中国に去った。
これを機に一色範氏は少弐頼尚を攻めたが、頼尚に支援を求められた菊池武光は針摺原の戦い(福岡県太宰府市)で一色軍に大勝する。
さらに懐良親王は菊池・少弐軍を率いて豊後国の大友氏泰を破り、一色範氏は九州から逃れた。

一色範氏が去った後、少弐頼尚が幕府方に転じた。
菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸ら南朝方は正平14年/延文4年(1359年)の筑後川の戦い(大保原の戦い、福岡県小郡市)でこれを破り、正平16年(1361年)には九州の拠点である大宰府を制圧する。

幕府は2代将軍足利義詮の代に斯波氏経、渋川義行を九州探題に任命する。
しかし、九州制圧は進まず、正平22/貞治6年(1367年)には幼い3代将軍足利義満を補佐した管領細川頼之が今川貞世(了俊)を九州探題に任命して派遣する。

明の朱元璋がこの頃北九州で活動していた倭寇と呼ばれる海上勢力の鎮圧を要求する国書を懐良親王に送ると、懐良ははじめは断った。
しかし、後に臣従して「日本国王良懐」(『太祖実録』の記述による)として冊封を受け、中央では既に南朝勢力は衰微していたものの、懐良親王は明の権威と勢力を背景に独自に九州に南朝勢力を築く。

その後は今川貞世(了俊)に大宰府・博多を追われ、足利直冬も幕府に屈服したため九州は平定される。
懐良は征西将軍の職を良成親王(後村上天皇皇子)に譲り筑後国矢部村で病没したと伝えられる。

また、懐良親王が「良懐」として明と冊封関係を結んでしまったため、義満が日明貿易(勘合貿易)を開始する際に新たに建文帝から冊封をうけ「日本国王」となるまでは、北朝や薩摩の島津氏なども明に使節を送る場合は「良懐」の名義を用いねばならないという事態も発生した。
その足利義満も、当初は明国から、「良懐と日本の国王位を争っている持明の臣下」と看做されて、外交関係を結ぶ相手と認識されず、苦労している。

墓所・霊廟
墓所の伝承地はいくつかあるが、宮内庁は熊本県八代市のものとしている。
明治時代になって同市の八代宮に祀られた。

エピソード
「賀蘭山前に相逢うて、いささか以って博戯せん」

辞世の歌
「雲井にものぼるべき身のさはなくて 雲雀の床に音をのみぞなく」

[English Translation]