成務天皇 (Emperor Seimu)

成務天皇(せいむてんのう、景行天皇14年(84年)- 成務天皇60年6月11日 (旧暦)(190年7月30日))は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第13代の天皇(在位:成務天皇元年1月5日 (旧暦)(131年2月18日) - 同60年6月11日(190年7月30日))。
和風諡号は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらのみこと、古事記)。

「タラシヒコ」という称号は12代景行、13代成務、14代仲哀の3天皇が持ち、ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、35代皇極の両天皇も同じ称号をもつ。
このことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであり、12,13,14代の称号は後世の造作ということになり、成務天皇の実在性には疑問が出されている。

『記・紀』に載せる成務天皇の旧辞部分の記事は、他の天皇のそれに比して極端に文量が少なく、史実性には疑いが持たれているものの、実在を仮定すれば、その年代は4世紀半ばに当たるか。

皇居
都は志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、現在の滋賀県大津市穴太)。
『古事記』に「若帯日子天皇、近江国の志賀の高穴穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき」とある。
成務天皇を架空と見る立場からは、天智天皇の近江宮のモデルを過去に投影した創作とする。

事績

景行天皇51年(121年)に立太子、成務天皇元年(131年)正月に即位。
3年(133年)に武内宿禰を大臣とした。
5年(135年)9月、諸国に令して、行政区画として国 郡(くにこおり)・県邑(あがたむら)を定め、それぞれに国造(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命して、山河を隔にして国県を分かち、阡陌(南北東西の道)に随って邑里(むら)を定め、古代日本の地方官制の整備を図った。
ここにおいて、人民は安住し、天下太平であったという。
これらは『古事記』にも大同小異で、「武内宿禰を大臣として、大国・小国の国造を定めたまひ、また国々の堺、また大県小県の県主を定めたまひき」とある。
『先代旧事本紀』の「国造本紀」に載せる国造の半数がその設置時期を成務朝と伝えていることも注目される。
甥の足仲彦尊(仲哀天皇)を皇太子に立て、60年(190年)6月に崩御、107歳。
『古事記』に95歳という。

御陵

『延喜式』諸陵寮によれば、狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけしりのみささぎ)に葬られた。
『書紀』に「狭城盾列陵」、『古事記』に「沙紀の多他那美(たたなみ)」とある。
現在、同陵は奈良県奈良市山陵町の佐紀石塚山古墳(前方後円墳・全長218m)に比定される。
江戸時代までたびたび盗掘の被害に遭った古墳の一で、犯人は流罪・磔などに処されたという。

[English Translation]