明正天皇 (Empress Meisho)

明正天皇(めいしょうてんのう、元和9年11月19日(1624年1月9日) - 元禄9年11月10日(1696年12月4日))は、第109代天皇(在位:寛永6年11月8日(1629年12月22日) - 寛永20年10月3日(1643年11月14日))。
幼名は女一宮、諱は興子(おきこ)。

系譜

後水尾天皇の第二皇女。
母は太政大臣征夷大将軍徳川秀忠の娘、東福門院徳川和子(かずこ、入内の際に濁音発音を嫌う宮廷風習にならい「まさこ」と読みを変える)。

略歴
寛永6年(1629年)の紫衣事件や将軍徳川家光の乳母春日局が無官のまま参内した事件に、江戸幕府への憤りを覚えた父の後水尾天皇から突然の内親王宣下と譲位を受け、興子内親王として7歳で践祚。
これにより孝謙天皇以来859年ぶりに女帝が即位することとなった。

治世中は後水尾上皇による院政が敷かれ、明正天皇が朝廷における実権を持つことは何一つなかった。
寛永20年(1643年)21歳で異母弟の後光明天皇に譲位して太上天皇となり、出家。
元禄9年(1696年)に崩御。
享年74歳。

古代より「天皇となった女性は即位後、終生独身を通さなければならない」という不文律があった。
この決まりは元来、皇位継承の際の混乱を避けることが主要な意図であるが、後水尾天皇はこの不文律を利用し、天皇家から徳川の血を絶やし、後世までその累が及ばぬようにするという意図などをもって、娘の明正天皇を即位させたといわれている(ただし興子の同母妹の昭子・賀子両内親王はそれぞれ五摂家の近衛家・二条家に降嫁している)。

在位中の元号

寛永 (1629年11月8日) - (1643年10月3日)

諡号・追号・異名

明正の名は、女帝の元明天皇とその娘の元正天皇から取ったとされる。

その他

明正天皇は徳川氏を外戚とする唯一の天皇である。
これを機に『禁中並公家諸法度』に基づいて江戸幕府の朝廷に対する介入が本格化した事を意味する。

しかし朝廷内においては院政を敷いた後水尾上皇が依然として実権を握っていた。
院政は本来、朝廷の法体系の枠外の仕組みであり、『禁中並公家諸法度』ではそれを統制できなかった(この件については霊元天皇の項も参照)。

勧修寺にある寝殿(明正殿)と書院(重要文化財)は、明正天皇が生活した御殿を彼女の死後に移築した物である。
書院は土佐光起親子が書いた障壁画で有名であるが、これらの絵画は江戸幕府や後水尾上皇らの許可無しでは、外出や他人との面会もままならない一生を過ごした明正天皇を慰めるために畿内の名所を書いた物と伝わる。

山田風太郎の伝奇小説『柳生十兵衛死す』にはヒロインの一人として登場する。

陵墓・霊廟

京都市東山区今熊野泉山町の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られた。

[English Translation]