武内宿禰 (TAKEUCHI no Sukune)

武内宿禰(たけうちのすくね・たけのうちの-・たけしうちの-、景行天皇14年(84年)? - 仁徳天皇55年(367年)4月 (旧暦)?)は、『古事記』『日本書紀』で大和朝廷初期(景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇の5代の天皇の時期)に棟梁之臣・大臣として仕え、国政を補佐したとされる伝説的人物。
紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏などの中央諸豪族の祖とされるが詳細は不明。
また、建内宿禰とも表記される。

別称:御食津大神(ミケツノオオカミ)(気比神)、高良玉垂神(コウラタマタレノカミ)

実在論

記紀の登場人物では最も長命の人間で、一人の人物とは考えられず、親子が何代かが同じ名前をついだもの、あるいは個人ではなくある種の人間集団の事跡を一人の人物の事柄に仮託して描かれたものではないかとする仮説も唱えられているが、確かではない。

安本美典は古事記や日本書紀に記された古代の天皇の存在そのものは信じられるが、皇位を父子で継承した事と在位年数が信頼できないという説を唱えている。
その例証のひとつとして、ひとりの天皇の在位年数を実際より長くしてしまったため、武内宿禰のような何代もの天皇に仕えた者の年齢が異常に長くなったとしている。

事績

成務天皇と同年同日の生まれという。
景行天皇の時に北陸・東国を視察し、蝦夷の征討を進言。
成務天皇3年(133年)に大臣となる。
神功皇后の朝鮮出兵を決定づけ、忍熊皇子らの反乱鎮圧にも功があった。
応神天皇の時、渡来人を率いて韓人池を造る。
また、甘美内宿禰から謀反の讒言を受けたが、探湯(くかたち)を行って濡れ衣を晴らした。
仁徳天皇50年(362年)が『書紀』に現われる最後。
『公卿補任』『水鏡』は同55年(367年)、『帝王編年記』所引一書は同78年(390年)に没したといい、年齢についても280歳・295歳・306歳・312歳・360歳などの諸説がある。

墳墓

奈良県御所市室宮山古墳(前方後円墳・全長238m)は古来「室大墓」と称され、武内宿禰の墳墓とする伝承がある。
この宮山古墳については、その子の葛城襲津彦の墓とも言われている。
その場合、宮山古墳より少し前に造られた馬見古墳群主な古墳が武内宿禰の墓の可能性が高い。
この巣山古墳の中心線は、佐紀盾列古墳群主な古墳の後円部中心を通っている。
平安時代、佐紀石塚山古墳の隣りの佐紀盾列古墳群主な古墳を神功皇后の陵墓として祭っていたが、それが誤っていて祟りがあったとも伝えられている。
それに従えば、神功皇后(息長帯姫)の真陵は佐紀石塚山古墳ということになる。
『因幡国風土記』には、360歳のときに因幡国に下降し、そこで双履を残して行方知れずとなったとの記述があり、双履が残されていたとされる鳥取県鳥取市国府町には武内宿禰を祀る宇倍神社がある。
他に、福井県敦賀市の気比神宮など多くの神社に祀られている。

久留米市の高良大社には、高良玉垂神として祀られている。

その他

皇国史観の下では忠臣の誉れが高く、日本銀行券の肖像にも、改造壹圓券(1889年)・甲五圓券(1899年発行)・丙五圓券(1916年発行)・丁貳百圓券(1942年発行)・壹圓券(1943年発行)の5種類に採用された。

[English Translation]