皇位継承 (Succession to the Imperial Throne)

皇位継承(こういけいしょう)とは、一般的に皇位(天皇の位)を皇太子もしくは皇位継承者に譲ることである。
諸外国における国王・皇帝の地位を継承を意味する王位継承あるいは帝位継承とほぼ同義語である。

概要

明治以後の歴代天皇については即位の礼を参照

天皇の皇位継承は、大日本帝国憲法及び日本国憲法で明文規定された。
日本国憲法では「皇位は、世襲のものであつて、國會(国会)の議決した皇室典範の定めるところにより、これを繼承(継承)する。
(日本国憲法第2条)」とある。
その皇室典範には「皇位は、皇統に屬(属)する男系の男子が、これを繼承(継承)する。
(s皇室典範a1)」とある。

大日本帝国憲法

皇位の継承について大日本帝国憲法第2条で「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス」とあり、旧皇室典範第一章に皇位継承順位、第二章に践祚即位について規定されていた。
皇室典範第1条では「大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス」と記されている。

皇位継承の儀式については、皇室典範を根拠とし皇室典範に属する法体系、いわゆる「宮務法」として公布された皇室令のひとつ、登極令(明治42年皇室令第1号)及び同附式によって細かく定められていた。
なお、日本国憲法の施行に伴い、旧皇室典範及び皇室令は1947年(昭和22年)5月2日に廃止されている。

日本国憲法

皇位の継承について日本国憲法第2条で「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを繼承する。
」とあり、皇室典範第一章に皇位継承順位及び即位について、第四章に即位の礼について規定されている。
皇室典範第1条では「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」と記されている。

皇位継承の儀式については、登極令(明治42年皇室令第1号)の廃止に伴い法律上の規定が存在しない。
また皇室典範には即位の礼を行う定めがあるにも拘らず、内容についての具体的な規定はされていない。
そのため、昭和天皇崩御に伴う皇太子明仁親王の皇位継承儀式、及び即位の礼は、廃止された旧登極令及び同附式を踏襲する形で執り行われている。

以下の皇位継承儀式は、皇太子明仁親王(今上天皇)の皇位継承に際するものである。

剣璽等承継の儀

剣璽等承継の儀とは、旧登極令(明治42年皇室令第1号)附式の、第一編 践祚ノ式にある剣璽渡御ノ儀(けんじとぎょのぎ)にあたる国事行為たる儀式である。
剣とは天叢雲剣を指し、璽は八尺瓊勾玉を示している。

これは皇位の証として伝わる三種の神器のうち、剣と璽を大行天皇(前天皇)から承継するもので、剣については宮中にある天叢雲剣の複製品を用い、神璽は本物とされる八尺瓊勾玉を用いる。
同時に国璽と御璽の承継も行われる。

1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇崩御に際しては天皇崩御直後、皇居正殿松の間で執り行われた。
国民代表として内閣総理大臣、最高裁判所長官、衆議院参議院両院議長の行政司法立法の三権の長、全閣僚などが参列した。
新天皇は宮内庁長官らに先導され皇族を従え松の間に臨場し、参列者に向合う形で正面の席に着き、剣・璽及び国璽・御璽を侍従が新天皇の前にある机に置く短い儀式が行われた。

皇霊殿神殿に奉告の儀

宮中三殿皇霊殿宮中三殿神殿に奉告の儀とは、先祖代々の皇霊を奉る皇霊殿、及び天神地祇を奉る神殿において、新天皇の即位を奉告する儀式である。
掌典長により宮中三殿で、剣璽等承継の儀が執り行われていた頃に執り行われた。

賢所の儀

宮中三殿賢所(けんしょ・かしこどころ)に御神体として奉られている神器、八咫鏡の承継儀式である。
1989年(平成元年)1月9日、昭和天皇崩御から2日後に掌典長により宮中三殿で執り行われた。
八咫鏡は宮中に鎮座している複製品である。

この儀式によって、皇位の証である三種の神器を継承した天皇は正統な皇位継承者となる。
なお、過去に継承の儀を執り行うことが出来なかったため、正統な皇位継承者にはなりえなかった天皇が存在する(南北朝時代分裂期の北朝の天皇など)。

即位後朝見の儀

新天皇が初めて内閣総理大臣らに言葉を述べる国事行為たる儀式である。
1989年(平成元年)1月9日に皇居正殿松の間で365人の参列者のもと執り行われた。

大嘗宮の儀

1年の諒闇、喪も明けて最初の新嘗祭(にいなめさい)たる大嘗祭(だいじょうさい)が即位の翌年に執り行われる。
11月卯の日(4番目の日)に4日間に渡って執り行われ、皇位継承に伴う儀式はこれをもって最後とする。
1990年(平成2年)11月23日に大嘗宮の儀が執り行われた。

なお、継承された神器(天叢雲剣及び八咫鏡)は複製品であるので、時機を見て本物が奉られている伊勢神宮と熱田神宮へ即位奉告を行うことになる。
特に皇祖神である天照大神の奉られている伊勢神宮への奉告は早期に執り行われる事になる。

弥生期~飛鳥期

日本では古代から皇位継承(王位継承)に関する問題が生じていた。
弥生時代後期の2世紀後半、倭国王位の継承をめぐって倭国大乱が起こり、卑弥呼が倭国王となることで争乱が終息した。
また卑弥呼の没後、男王が立ったが再度争乱が起こり、卑弥呼の宗女台与が王位について争乱は収まった。

古墳時代の5世紀にも王位継承をめぐる数々の紛争の発生が、日本書紀の記載から読みとれる。
6世紀前半には武烈天皇の死により一旦、倭国王統が断絶しているが、応神天皇の5世の子孫とされる継体天皇が皇位継承した。
実際に5世の子孫だったかには賛否両論あるが、この事例は5世の子孫までは皇位継承権を持ちうる先例となって、その後の皇位断絶に強く意識されることとなった。

古墳時代から飛鳥時代にかけて(6世紀中期~7世紀後期)も、皇位継承の紛争がたびたび生じた。
この頃の皇位継承のルールには、兄弟承継、大兄承継、群臣推挙、先帝遺詔(更に近年では即位要件に年齢制限(30歳以上)があったとする説もある)などがあり、これらが複雑にからんで皇位継承が行われていたと推定されている。
継体天皇の後に安閑天皇・宣化天皇が数年間在位して欽明天皇が皇位承継しているが、欽明による皇位簒奪だったとする説もある。
その後、欽明の子孫が皇位継承しているが、その経緯は複雑であり、多くの皇位継承紛争が生じている。
皇位継承者の決定が難航したときは、女性天皇が選ばれることもあり、推古天皇、皇極天皇が即位して、他に適当な男子の皇位承継者が現れるまで皇位についた(女帝が選ばれた理由には諸説あり、律令制以前の中継ぎ説を認めないなどの異説が多く存在する)。

古代の皇位継承において、最大の争いとなったのは、672年の壬申の乱である。
天智天皇は直系の大友皇子(弘文天皇)に皇位継承したが、それを不服とする大海人皇子が大規模な叛乱を起こし、弘文天皇を滅ぼして天武天皇となった。
天武は、自身以降の皇位承継紛争を防止するため、兄弟承継を廃止し、直系男子が皇位承継するルールを定めようと試みたらしく、草壁皇子を皇太子に立てた。
だが、政権基盤が固まる前に天武天皇が急逝してしまったために天武の皇后は草壁皇子が大友皇子の二の舞にならないように拙速な皇位継承を避けようとした。
だが、その草壁皇子までが急死してしまった為に皇后は皇位承継紛争を防ぐために、自ら中継として皇位につき(持統天皇)、草壁皇子の子である軽皇子(後の文武天皇)を皇太子とした。

奈良期~平安中期

奈良時代に入った後、文武天皇も皇位継承者である首皇子(後の聖武天皇)が成人する前に没したため、元明天皇と元正天皇の2人の女帝が後継した。
聖武天皇は、皇位継承すべき男子を残せず、女性の孝謙天皇が後を継いだ。
その後、藤原仲麻呂の強い推挙により天武の孫の淳仁天皇が立ったが、藤原仲麻呂の乱に連座して淳仁は廃帝となり、孝謙が再度即位して称徳天皇となった。
この間、他の皇族が皇位を狙ったがその都度謀叛と見なされ、適当な皇位継承者は不在となってしまった。
そのため、仏教に深く帰依していた称徳は僧道鏡を皇位に付けることを企図した(異説あり)が失敗し、後継を決めないまま称徳は没し、天武皇統が断絶することとなった。
天武から称徳に至るまでの皇位継承のルールは(承継すべき者が未成人などの場合には女帝が中継することもあったが)、原則として直系承継であった。
このルールは、激しい皇位承継紛争を未然に防止して天智皇統の復活を阻止しようとした代わりに、承継候補者を限定してしまったため、却って皇統の断絶(結果的には天智皇統の復活)という結果を招くこととなった。

称徳崩御による皇統断絶の危機に際して大臣らは協議を行い、その結果、天智の孫に当たる年配の光仁天皇が皇位承継することとなった。
この事例は、臣下の協議による皇位継承の先例となった。
また、この時には2つの点で継体天皇の先例が強く意識されていたようである。
一つは必ず皇胤である事、もう一つは先代の天皇との婚姻関係を有する(光仁は称徳の異母妹の夫)ことであった。
光仁は天武系断絶を教訓として息子の桓武天皇を後継とし、その弟の早良親王を桓武の皇太弟とした。
これにより、天智・天武以来の直系皇位継承は放棄され、大兄制が(一時的とは言え)事実上復活したと見ることも可能である。
だが、早良親王は謀叛の疑い(藤原種継暗殺事件)によりこれを廃し、早良は怒りもあらわに絶食死を遂げる事になる。
この壮絶な早良の死はその後の桓武を苦しめ、崇道天皇の号が贈られたが、桓武に始まる平安朝は長く早良の怨霊に恐れ苦しむこととなる。
桓武は多くの皇子をもうけた。
桓武の後は、桓武長子の平城天皇が皇位継承し、その遺志に従う形で病弱であった平城の次にはその弟の神野親王(後の嵯峨天皇)が皇太弟に立った。
これに不満を抱いた平城は大兄である自分の直系に皇位継承することを企図して、一旦、嵯峨へ譲位して自身の子、高岳親王を皇太子とした。
この措置に今度は嵯峨は反発し、平城と嵯峨の武力衝突が起こり嵯峨が勝利した(薬子の変)。
これによって平城の直系は皇位の可能性がなくなったものの、嵯峨は内外の批判を恐れて自分の実子を擁立する事に躊躇して弟の大伴親王(後の淳和天皇)を皇太弟とした。
嵯峨と皇位継承紛争を防ぐために、それぞれの直系を互いに皇位につける迭立(てつりつ)を採用することとし、実際、嵯峨-淳和-仁明天皇(嵯峨の子)と皇位継承され、仁明の次も恒貞親王(淳和の子、母は嵯峨の皇女)が皇太子に立てられていた。
これに対して淳和は却って紛争の原因となる事を危惧を抱いており、嵯峨に仁明の次にはその皇子を立てるべきであると忠告したものの受け入れられなかった。
しかし、淳和・嵯峨両上皇の相次ぐ崩御の直後、恒貞を廃太子(皇太子を廃すること)とする事件(承和の変)が起こり、皇位継承は嵯峨-仁明の系統に統一されることとなった。
この事件は皇統統一を狙った仁明が、藤原北家の協力を得て起こしたとする説もある。
かくして光仁以来の天智系皇統が天武系皇統を教訓にして取り入れた兄弟継承の相続(大兄制の実質復活)は、藤原種継暗殺事件から承和の変に至る皇位継承を巡る内紛の連鎖の招来に終わった。

仁明の後、文徳天皇-清和天皇-陽成天皇と直系による皇位継承がほぼ順調に行われたが、陽成が内裏で重大事件(誤って殺人を犯したとする説が有力)を起こし退位に追い込まれてしまい、再び直系継承の下で皇統断絶の危機が訪れることになった。
このときは、有力候補がおらず、廃太子となった恒貞親王や嵯峨の子である源融らが候補となったが、最終的には称徳崩御時の先例をとって、仁明の子で年配の光孝天皇が即位して皇位を継いだ。
ただ、光孝はあくまで中継ぎとの立場をとり、自身の皇子を全て臣籍降下させていたが、死去直前になっても後継者を立てていなかったため、緊急措置として急遽、光孝の子の源定省が立太子され宇多天皇となった。
一度臣籍に下った者が皇位につくのは、日本の皇位継承史の中でも極めて異例であるが天皇の子の身分の決定は天皇の専権事項である(臣籍に降ろした実子を皇族に戻す事も許される)として押し切ったのである。
しかし、宇多とその子の醍醐天皇は積極的な政治を展開し、天皇親政の理想型を築いた。

文徳天皇の頃から藤原北家が天皇の外戚として摂政・関白につく摂関政治がある程度形成されていたが、醍醐の子である朱雀天皇・村上天皇兄弟の頃に、摂関政治が確立することとなる。
摂関家内部に複数の摂関候補者が登場することとなり、それぞれの候補者が別個に天皇に娘を入内させて子をもうけたため、皇位継承は摂関家のパワーバランスに左右されることとなった。
以上のような状況から、皇位継承候補者も複数存在することとなり、再び皇統の分裂-迭立-が見られるようになった。
しかし、藤原道長が摂関家を統一したことに伴い、皇統も統一されることになる。
その後も迭立への動きは見られたが、王朝内部に皇統を統一する意思が働き続けた。

院政期~鎌倉中期

上記のような皇統統一の流れの中で後三条天皇が即位した。
後三条は、皇統統一をより強固なものとするため、生前に直系男子へ譲位し上皇として政務に当たることを目論んでいた。
後三条はその実現の前に没したが、その直系男子の白河天皇は後三条の遺志を継いで、上皇となって事実上の国王(治天の君)として政務に当たる院政を開始した。
上皇が国王の座につくことにより、天皇がそれまでの皇太子的立場となったため、皇太子の空位が常態化した。
いずれにせよ、皇統の安定化が院政の主要な目的の一つであった。
平安末期になると、鳥羽上皇の後継をめぐって崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇の兄弟間による皇位承継紛争が保元の乱・平治の乱という武力衝突により解決されることとなった。
最終の勝利者は後白河であったが、両乱を通じて武士を利用したため、その後の武士の台頭を許すこととなった。

後白河の後、皇位継承者は非常に多くの系統に分かれたが、後白河が院=治天の君として君臨し続け、むしろ皇統は安定していたといえる。
後白河は伊勢平氏・河内源氏など武士勢力の勃興に対して、王権の維持を図ろうとしたが、結局、王権の一部を鎌倉幕府へ委譲することとなる。
後白河の正当な後継者は後鳥羽天皇であり、皇統は後鳥羽の系統に統一され、後白河の死後、後鳥羽は院政を開始した。
後鳥羽は鎌倉幕府に移った東国統治権を奪還するべく承久の乱を起こしたが、王朝が幕府に破れるという事態を招いた。
この結果、幕府によって後鳥羽院政と後鳥羽系統の皇統は全て廃されたが、皇位継承すべき者が不在という事態に至った。
当時、皇位承継するにはその父が院でなければならないという慣例ができており、やむなく皇位についたことのない守貞親王が後高倉院として治天の地位について院政を開始し、その子が後堀河天皇として即位することとなった。
しかし、後堀河の系統も次代の四条天皇が幼年のうちに没したことで断絶し、皇位は再び後鳥羽の系統へ戻った。
このとき皇位を承継したのは、後嵯峨天皇である。
後嵯峨の父は、父の後鳥羽に疎んじられて承久の乱の際も中立を守った土御門天皇であるが、このことが幕府の賛意を得ることになり、事実上、後嵯峨の皇位継承は幕府が決定したと言える。
これは、後世の先例となって江戸幕府に至るまで、皇位継承には幕府の承認が必要とされた。

皇統分裂の時代

後嵯峨の子には、後深草天皇・亀山天皇の兄弟がいたが、互いに後嵯峨後継の治天の君の座を争い、その妥結として、両者の直系子孫が交互に皇位・治天位につく両統迭立が行われることとなった。
兄・後深草の系統を持明院統、弟・亀山の系統を大覚寺統というが、これが日本史上最大の皇位迭立となり、後世に大きな影響を与えることとなる。

しばらく両統迭立は順調に行われていたが、鎌倉時代末期になると両統の内部で皇統分裂が見られ始め、迭立の混乱が生じてきた。
その状況下で大覚寺統の後醍醐天皇は、王権復興を目指して幕府追討計画を2度にわたって立て(正中の変・元弘の変)、幕府により廃位・流罪に処されるも、鎌倉幕府の滅亡をもたらし、京で復位した後、建武の新政を開始した。
後醍醐は治天の地位につくことなく、約200年ぶりに天皇の地位のまま親政を行った。
後醍醐は両統迭立状態を解消し、自身の系統に皇統を再度統一したと考えていたが、その後、後醍醐の新政へ多くの離反が相次ぎ、離反勢力からなる足利幕府は持明院統から光明天皇を擁立した。
これにより北朝(持明院統)と南朝(大覚寺統)の2つの王朝が同時に存在する日本史上未曾有の事態となった。
北朝は、幕府の擁護を受けて、従来どおりの院政を継続したが、南朝では後村上天皇以降、関白こそは復活させたものの天皇親政を貫いた。
1352年室町幕府内部の内紛に乗じて南朝軍が京都を占領して北朝の崇光天皇ら主だった皇族を拉致してしまう(正平一統)。
室町幕府は天皇の弟の一人が寺院に預けられている事を知って急遽後光厳天皇として即位させた。
後に南朝方は崇光らを返還したものの、室町幕府は崇光の復位を認めず子孫には伏見宮の称号を贈って宥めようとした。
だが、皇位継承が後光厳の直系子孫による方針が決められたために崇光と伏見宮家による後光厳と室町幕府に対する反感が高まって、北朝は事実上の分裂状態に陥ったのである。

時代が進み北朝・室町幕府側の優位が明確になってくると、南朝側も妥結点を模索してきた。
そこで仲介に当たったのが足利義満である。
1392年、持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)の迭立再開が提案され、南朝の後亀山天皇が条件受諾したことにより、北朝の後小松天皇とともに南北朝合一が実現した。
しかし、1412年に称光天皇が即位するに際して迭立再開の条件は撤回されることとなり、後小松天皇の直系子孫による皇位継承が宣言された。
約束を反故にされた南朝側は憤慨し、後南朝としてその後も存続し続けた(太平洋戦争後まで南朝子孫を名乗る者がいた)。

一見、南北朝合一により皇位継承は再び安定したように見られたが、もう一つの問題であった北朝内部の内紛は解消されなかった。
更に後小松には称光しか男子がおらず(称光の皇太子であった後小松の第2皇子は早世、実はこの他に名僧として知られた一休宗純も後小松の皇子であったが、政治的事情により早くから出家させられて皇位継承権を失っていた)、更に称光には子供がいない上に虚弱体質であったためにいつ崩御されてもおかしくない状態となっていた。
そこで当時院政を行っていた後小松は崇光の孫である伏見宮貞成親王に対して万が一の際の皇位継承を極秘に要請した。
ところがその話が称光に伝わると激怒して貞成親王を強引に出家させて皇位継承権を剥奪してしまった。
ところがそれから程ない1428年に肝心の称光が崩御して後小松系の皇統が断絶してしまった。
そこで後小松は貞成親王の皇子であった後花園天皇を擁立させたのである。
これに対して旧南朝側では北朝側の皇統は断絶しており、傍流の継承は認めないとして各地で蜂起を起こした。
一時は宮中に侵入した南朝側の武士によって三種の神器を奪われる(禁闕の変)などの危機にもあったが室町幕府はこれを鎮圧、ここにおいて初めて真の「南北朝合一」が実現したのである。

足利義満

1990年代前期ごろから足利義満は皇位簒奪を企図していたとする説が注目されるようになった。
武家としてだけでなく、公家としても官位を極めた義満は、治天の君としての行動を徐々に始め、自身の子である足利義嗣を皇位につけることを計画していたが、計画成就の寸前に死去したため皇位簒奪がならなかったとしている。
義満も清和天皇(又は陽成天皇)に始まる源氏ではあるが、代数が当時の天皇から十数代も離れていたため皇族としての資格はないものと見做されていた。
日本の歴史上五代以上天皇位についていない家系に属する皇裔が即位した例はない。
しかし、上記説の論者は、当時の状況(後光厳系統断絶の危機など)を詳細に観察してみると、義満による皇位簒奪はかなりの可能性で成功したはずであり、もし成功していればその後の天皇(皇位)のあり方が劇的に変化していただろうと考えている。
実際、義満の死後、太上天皇号が朝廷から贈られようとしている(義満の後継者足利義持がこれを辞退した)。

戦国期~現代

室町時代中期に入ると、皇室の権威は次第に低下していったが、それに伴い皇位継承紛争は見られなくなり、直系男子がすんなりと皇位継承するようになった。
誰が皇位についても構わないという状況が出現したことになる。
それでも伏見宮家から入った後花園天皇から17世紀前期(江戸時代初期)の後陽成天皇まで、直系男子が継承紛争もなく迭立もないまま順調に皇位を継承していき、日本史上もっとも皇位継承が長期間にわたり穏やかに行われた時代でもある。

安土桃山時代後期・江戸初期の後陽成は自分の後継者が豊臣秀吉・徳川家康の2大権力者の思惑により擁立された事に不満を抱き、実子ながらこれらを廃して実弟の八条宮智仁親王に譲位しようとして豊臣政権や江戸幕府と衝突したが、最終的に家康の推す嫡男子の後水尾天皇に譲る事になったが長く親子間の不和が続いた。
続く後水尾もたびたび幕府から高圧的に扱われたため、それに耐えかねて1629年、自らの女子に譲位した。
このとき皇位継承した明正天皇は称徳天皇以来859年ぶりの女帝である。
明正はその後、異母弟の後光明天皇へ譲位した。
中継ぎとしての女帝の存在が江戸期にも見られる。
後光明以降は、直系男子への継承を基本として、継承者が未成人などの場合に中継ぎとしての女帝が擁立されていた。
その後、1779年に後桃園天皇が子を残さないまま若くして没したため、日本史上、数回目となる皇統断絶の危機が発生した。
しかし、この約60年前に皇統断絶の可能性を予見していた新井白石は、皇位継承権をもつ皇族家系となる閑院宮を創設しており、後桃園の後継として閑院宮から光格天皇が迎えられた。

皇族の子孫は数代経た後に皇籍から離脱するのが律令以来の通例であったが、中世以後、伏見宮や閑院宮の様に皇統維持のために、何代経ても親王位につくことのできる家系(世襲親王家)を創出していったのである。
また、当時天皇に複数の皇子がいる場合、複数の親王の生活を支える財政的ゆとりが無い事や臣籍降下をさせるだけの公家官位の余裕が無い事から、皇位継承者以外の皇子は全て幼くして出家を強要せざるを得ない(当然ながら出家した皇子には子孫が存在しない事になる。
前近代の後宮制度の充実ぶりにも関わらず、中世以後に皇統断絶の危機が何度も生じたのはこうした事情がある)状態にあったが、世襲親王家が断絶した場合には天皇が実子を養子として送り込む事で子孫の安泰を図る事も行われた。

光格以後は、すべて直系男子により皇位継承が行われて現在に至っている。
明治天皇の時に退位禁止と養子禁止と直系男子への皇位継承優先について定めた旧皇室典範が制定された。
昭和時代、日本国憲法の下で皇室典範は再度制定されたが、退位禁止と養子禁止と直系男子への皇位継承優先とする基本性格は変わらず、非嫡出子を皇族としない規定が追加された。

課題

皇室典範の「皇統に屬(属)する男系の男子」という条文について、愛子内親王の生誕など天皇直系の皇位継承者の終端に女性しかいない問題が生じていた。
2006年の悠仁親王生誕により、一応は皇位継承者を確保できたが、依然として継承者不足に変わりはない。
そのため、女性天皇及び女系天皇の可能性も含めた議論が起こっている。

日本の皇位継承を概観すると、歴史上、女帝は幾人かいたが、いずれも中継としての存在である。
皇統は男系によりつながれてきており、女系により次代へ継承された例はないことがわかる。
そのため、直系男子による皇統が一旦断絶したとしても、古くは継体天皇から光仁天皇、光孝天皇、後嵯峨天皇、後花園天皇、光格天皇に至るまで、傍系ではあるが全て男系により皇統がつながれてきた。
上皇(治天の君)-天皇の形態は男系での皇位継承を非常に安定させる形態だったが、明治以降、上皇の存在は廃止されている。
このように皇統は男系で連綿と継続されてきたが、近年、皇室に男子の誕生が長らくなかったことなどから、女系継承の容認の可否が議論の対象となっている。
日本の皇位継承は、皇室始まって以来の男系の伝統をつないでいくか、女系を容認して旧来の皇統と決別し、新たな皇統を創設していくかの岐路に立っていると言えるだろう。

[English Translation]