興良親王 (Imperial Prince Okiyoshi)

興良親王(おきながしんのう/おきよししんのう)
護良親王の子。

宗良親王の子。

興良親王(大塔若宮)
興良親王(おきながしんのう/おきよししんのう、嘉暦元年(1326年) - ?)は南北朝時代 (日本)の南朝 (日本)の皇族(生年は神皇紀に基づく)。
父は大塔宮護良親王で、その第一子である。
母は花山院師兼の娘または北畠親房の妹。
大塔若宮、赤松宮。
弟に陸良親王。

但馬国に生まれ、のちに後醍醐天皇の猶子となり親王宣下される。
暦応4年/興国2年(1341年)2月、宇津峰南城に於て南朝 (日本)から征夷大将軍に任ぜられた。
夏、常陸国小田城に行き北畠親房に迎えられ、関城、大宝城攻防戦ののち駿河国に移る。
延文5年/正平 (日本)15年(1360年)4月、赤松氏範らと共に、南朝の本拠である賀名生行宮を突然焼き討ちした。
大将軍に任ぜられた二条師基らの反撃により、親王方は三日後には鎮圧された。
赤松氏範が約20騎を率いて身を呈して親王を護ったため、なんとか奈良に落ち延び、その後は不明である。
氏範は親王を落とした後に降伏し、兄の赤松則祐のもとに去った。

興良親王(遠江宮)
興良親王(おきながしんのう/おきよししんのう、興国元年(1340年)/同3年(1342年) - 天授 (日本)3年(1377年)9月10日)は南北朝時代の南朝の皇族。
父は宗良親王、母は狩野貞長(狩野介藤原貞長)の娘重子。
元号にちなみ「興良」と名付けた。
遠江宮。

正平 (日本)8年(1353年)閏2月、北朝の勢力が増したため、親王を護るため、貞長より遠江国秋庭城の天野景顕に託された。
しかし、景顕も親王を守り切れなくなり、正平14年(1359年)4月に親王の母方の伯父、京の北朝 (日本)の重臣二条為定の許に届けられた。
その後北朝方に捕われ、天授3年9月10日、病のために没した。

[English Translation]