雄略天皇 (Emperor Yuryaku)

雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年(418年)12月 (旧暦) - 雄略天皇23年8月7日 (旧暦)(479年9月8日))は、第21代の天皇(在位:安康天皇3年11月13日 (旧暦)(456年12月25日) - 雄略天皇23年8月7日(479年9月8日))。
大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)、大長谷若建命・大長谷王(古事記)。
大悪天皇・有徳天皇とも。
また『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定される。

倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されている。
熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘や埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘を「獲加多支鹵大王 (ヤマト王権)」と解しその証とする説が有力である。
この説に則れば考古学的に実在が実証される最古の天皇である。

朝廷としての組織は未熟であったが、『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本現報善悪霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、古代の人々が雄略朝を歴史的な画期として捉えていたとみることもできる。

皇居
都は初瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)。
稲荷山古墳出土金象嵌鉄剣銘に見える「斯鬼宮(しきのみや ・磯城宮)」も朝倉宮を指すと言われる(別に河内の志紀(大阪府八尾市)とする説もある)。
伝承地は奈良県桜井市黒崎(一説に岩坂)である。
しかし1984年、同市脇本にある脇本遺跡から、5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見された。
朝倉宮の跡とされ話題を呼んだ。
これ以降一定期間、初瀬に皇居があったと唱える人もいる。
尚、『日本現報善悪霊異記』によれば、磐余宮(いわれのみや)にも居たという。

略歴

記紀によれば安康天皇3年(456年)8月、安康天皇が幼年の眉輪王(まよわのおおきみ、古事記では7歳)により暗殺されたという。
これを知った大泊瀬皇子は兄たちを疑った。
まず八釣白彦皇子を斬り殺し、次いで坂合黒彦皇子 ・眉輪王をも殺そうとした。
この2人は相談して葛城氏の円大臣(つぶらのおおおみ)宅に逃げ込んだ。
大臣の助命嘆願も空しく、大泊瀬皇子は3人共に焼き殺してしまう。
さらに、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ、仁賢天皇 ・顕宗天皇の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺した。
政敵を一掃して11月 (旧暦)に大王の座に就いた。
即位後も人を処刑することが多かった。
そのため後に大悪天皇と誹謗される原因となっている。
しかし大悪天皇の記述は武烈天皇にも見られることから両者は同一人物ではないかとの説もある。

平群真鳥(へぐりのまとり)を大臣に、大伴室屋(おおとものむろや)・物部目(もののべのめ)を大連(おおむらじ)に任じて、軍事力で専制王権を確立した大泊瀬幼武大王(雄略天皇)。
その次の狙いは、連合的に結び付いていた地域国家を大和政権に臣従させることであった。
特に最大の地域政権吉備国に対して反乱鎮圧の名目で屈服を迫った(吉備氏の乱)。
具体的には、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや ・463年)や吉備田狭(きびのかみつみちのおみたさ ・463年)の「反乱」を討伐して吉備政権の弱体化を進めた。
さらに雄略天皇の崩後に起こった星川稚宮皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋らが鎮圧して(479年)、大和政権の優位を決定的にした。
『日本書紀』には他に、播磨国の文石小麻呂(あやしのおまろ・469年)や伊勢国の朝日郎(あさけのいらつこ・474年)を討伐した記事が見えている。

対外関係では、雄略天皇8年2月(464年)に任那日本府軍が高句麗を破り、9年5月には新羅に攻め込んだ。
しかし将軍の紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)が戦死し、敗走したと言う。
(『三国史記』新羅本紀によれば倭が462年5月に新羅の活開城を攻め落とし、463年2月にも侵入したが、最終的に新羅が打ち破ったと記載されている)。
20年(476年)に高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌21年(477年)、大王は百済に任那を与えて復興したという(『三国史記』高句麗本紀・百済本紀によれば、475年9月に高句麗に都を攻め落とされ王は殺され、同年熊津に遷都している)。
この他、呉国(宋 (南朝))から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して、養蚕業を奨励したことも知られる。
479年4月、百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵500をつけて帰国させ、東城王として即位させた。
兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。

22年(478年)白髪皇子(後の清寧天皇)を皇太子とした。
翌23年(479年)8月、大王は病気のため崩御した。
梁書によると、梁の武帝は502年、雄略天皇に比定される倭王武を征東将軍に進号した。
このことから、この年に遣使自体は行われなかったものの実際の没年は記紀による年代よりも後であった可能性もある。

雄略天皇の血筋は男系では途切れている。
しかし皇女の春日大娘皇女が仁賢天皇の皇后となり、その娘の手白香皇女が継体天皇の皇后となり欽明天皇を産んでいる。
このことから、その血筋は現在まで続く事となった。

陵墓・霊廟

丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)に葬られた。
大阪府羽曳野市島泉にある高鷲丸山古墳(古墳古墳の形式一覧・径76m・島泉丸山古墳とも)と平塚古墳(方墳・辺50m)に比定されている。
近年一部の考古学者が、同県松原市西大塚と羽曳野市南恵我之荘に亘る河内大塚山古墳(前方後円墳・全長335m)とする説がある。
陵墓参考地のために詳細な調査がなされておらず不明確な点があるものの、埴輪の存在が明らかでないなどの特徴から、前方後円墳終末期のものであるとの説が強い。
そうすると雄略の崩年と築造年代に数十年の開きがあり妥当なものではない。

『古事記』によると、顕宗天皇の父(市辺押磐皇子)の仇討ちをすべく、意祁命(後の仁賢天皇)自ら雄略天皇陵の墳丘の一部を小規模ながら破壊した、とある。
『書紀』にも顕宗が陵破壊を提案したとあるが、皇太子億計がこれを諌めて思い止まらせたとする。

その他

伊勢神宮外宮を建立。

元々、豊受大神は葛城氏が代表して奉祀していた。
葛城氏没落後、あまり省みられなかった。
崇敬の声が大きくなり、丹波国にも祀られていたものを、雄略天皇22年(崩御前年)に外宮を設立することで収拾を図ったのではないかとする説がある。

豊受大神と名が似ている飯豊天皇は、その揺り返しの中で政務を執った可能性もある。

また、雄略天皇の皇女で、斎宮である栲幡姫皇女(稚足姫皇女)が、湯人(ゆえ:皇子女の沐浴等に仕える役職)の盧城部連武彦の子供を妊娠したと、阿閇氏国見に讒言され、無実を晴らすため自殺した事件が雄略天皇紀3年4月条に載っている。
皇女の母である葛城韓媛が父の葛城円大臣から即位前の雄略天皇に、妃として献ぜられたとする記事より約3年後のこととなる。
献ぜられる前に韓媛が皇女を産んでいないと年代が合わない。
むしろ、上記讒言事件は、外宮の設立と年代が近かったのではないかと推測される。
尚、阿閇臣国見は、讒言が誤りだと判明した後、伊勢神宮では無く、石上神宮に逃げ込んでいる。
一種のアジールであったのだろう。

先代の安康天皇が、仁徳天皇の子である大草香皇子に、妹の草香幡梭皇女を、同母弟である即位前の雄略天皇の妃に差し出すよう命令した(大草香皇子と草香幡梭皇女は父系の叔父と叔母)。
仲介役の坂本臣等の祖である根臣が、大草香皇子の「お受けする」との返答に付けた押木玉鬘(おしきのたまかつら:金銅冠?)を横取りするために、天皇に「大草香皇子は拒否した」と偽りの讒言をする。
安康天皇は大草香皇子を殺害、その妃である中蒂姫命(長田大郎女)を奪って自分の皇后とした。
中蒂姫は大草香皇子との子である眉輪王を連れていた。
やがて眉輪王に安康天皇は殺害される。
雄略天皇は草香幡梭皇女に求婚する道の途中で、志貴県主(参考:志貴県主神社)の館が鰹木を上げて皇居に似ていると何癖をつけ、布を掛けた白犬を手に入れる。
それを婚礼のみやげ物にして、草香幡梭皇女を皇后にする。
以上のように、雄略天皇の皇后、妃は実家が誅された後に決められたものが多い。
王権の強化のため、有力皇族や豪族の主を除き、その残党を納得させ、財産を王権に統合するために妃を取るということの様である。
兄である安康天皇の事跡を、雄略天皇が皇族だけでなく、有力豪族(皇族クラスと当時思われていた?)にも拡大適用して行った様に見える。

『古事記』では、即位前の雄略天皇に対して、大長谷王(おおはつせのみこ)という表記がたびたび見られる。
通常、即位前の天皇に命(みこと)の称号を用いる『古事記』に於いて、王(みこ)の称号が用いられているのは、異例。

『日本書紀』には、次のようなエピソードがある。

天皇は狩に出かけた際、猪を射殺せない気弱な舎人を殺そうとした。
しかし「陛下、今猪を食したいからといって舎人を斬られますのは、豺狼(山犬・狼のこと)と何も違いません。」と、皇后にいさめられた。

豺狼を残忍なたとえとするのは『後漢書』で登場する。
そのため話自体が後世の創作とも考えられる。
しかし、雄略天皇の性格をよく表した一節である。

御製歌

籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岳に 菜摘ます児 家聞かん 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ 我こそは 告らめ 家をも名をも -『万葉集』巻第一より-

美しい籠をもち、美しい篦を手に、この丘で菜を摘む娘よ、そなたはどこの家の娘か
名はなんというのか
この大和の国を、隅々まで治めている、全てを支配しているこの私から、名をも家をも名乗ろう

夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は こよひは鳴かず 寝ねにけらしも -『万葉集』巻第九より-

夕方になると、いつも小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない。
もう寝てしまったらしいよ。
※舒明天皇作とも。

[English Translation]