三室戸家 (Mimurodo Family)

三室戸家(みむろどけ、「みむろと」の読みは誤記)は、名家 (公家)の家格を有する公家。
藤原北家藤原真夏流日野家流柳原家庶流。
家業は文学・華道(竹真流)。
江戸時代の家禄は130石。
家紋は鶴の丸(但し先端の羽根は本家同様3本)。
明治維新後、子爵。

柳原資行の3男三室戸誠光(ともみつ)を祖として江戸時代前期に創設された。
当初は北小路と称したが、寛文5年(1665年)7月、願いにより三室戸と改めた。
誠光の兄の柳原資廉は霊元天皇の従兄弟にあたり、武家伝奏をつとめて幕府との交渉に活躍した。
特に赤穂藩主浅野長矩が饗応役を務めた際に起こった刃傷事件(元禄赤穂事件)の時に江戸城に下向していた。

歴代は多く三位、非参議であったが、三室戸光村は参議に、三室戸能光は大納言に昇進した。

江戸期までは華道竹真流家元を称していたが、敬光により三重県桑名市にある寺に家元を譲っている。
三室戸和光は大正期に伊勢神宮大宮司となり、三室戸雄光の実子三室戸治光も平安神宮宮司となっている。

三室戸敬光は昭和初期に貴族院 (日本)議員(会派は研究会)に互選され、特に1935年(昭和10年)に起こったいわゆる天皇機関説問題に際して、男爵菊池武夫 (陸軍軍人)議員とともに美濃部達吉を追求し辞職に追い込み、さらには国体明徴声明を岡田内閣に出させている。

また1934年(昭和9年)には、斎藤内閣の商工大臣であった中島久万吉が雑誌「現代」2月号に転載された足利尊氏と足利時代(室町時代)を再評価すべきという感想を述べたことに対して、菊池議員と共に中島大臣を攻撃し辞職させたことでも知られる。
なお、敬光は昭和初期に東京高等音楽学院長(現・国立音楽大学)を務めている。
戦後、公職追放とされた。

敬光の長男三室戸為光は、1938年(昭和13年)に東京高等音楽学院の大塚分教場を東邦音楽学校として(のちの東邦音楽大学・東邦音楽短期大学)を独立・創設した。

[English Translation]