内藤氏 (Naito clan)

内藤氏(ないとうし、ないとううじ)は、日本人の姓。
中世から近代まで栄えた豪族・大名の一族。

藤原北家秀郷流(道長流)内藤氏

以下の内藤氏が著名である。
鎌倉時代に源頼朝に仕えた内藤盛家・内藤盛時がこれらの内藤氏の共通の先祖にあたるとされる。

丹波国の守護代。
細川氏に仕えた。
藤原氏秀郷流を称する。

長門国の守護代。
大内氏に仕えた。
藤原氏秀郷流または道長流を称する。

松平氏に仕えた三河国の豪族。
1、2の内藤氏と同族と称する。

甲斐国の一族。
1、2の内藤氏と同祖とされる。
武田氏に仕えた。
内藤昌豊が有名。

内藤氏(丹波系)

藤原氏藤原秀郷の一族とされるが前歴は不明である。
しかし、細川内衆とされていることから、細川氏の直属の家臣であったと思われる。
1431年に丹波守護代である香西元資が罷免されると、細川氏の被官である内藤信承が守護代に就任、入国した内藤氏は船井郡八木に根拠を構えたことから内藤氏の丹波支配が始まる。
但し、細川氏は領国支配政策として分郡守護代制を布いていることから、内藤氏が丹波一国を支配していたかどうかは不明である。
応仁の乱の際、但馬国より出撃した山名氏方の将・太田垣氏と丹波諸豪を従え夜久野で交戦している。

しかし、1479年に内藤元貞が細川被官の一宮氏と何らかのトラブルを起こしたため1482年守護代を罷免される。
代わって守護代に就いたのは上原元秀で、彼は丹波物部の豪族である。
細川政元の信任厚かったものの驕慢の振る舞いが多かったため丹波諸豪族の怒りを買い1489年9月に位田の乱が起こった。
このため1495年上原元秀が罷免され、内藤元貞が復任した。

その後、細川氏が細川高国派と細川晴元派に分裂、内藤氏ら丹波諸豪は高国に属して度々晴元の攻撃を受ける。
特に内藤氏は丹波の入り口に位置していたために細川氏らの攻撃を直接受けた。
再三の守護代罷免・復任劇は内藤氏が如何に細川氏内紛に関わっていたかを物語るとする見解がある。

しかし、1515年八上城を築いて根拠とした波多野氏が次第に勢力を増大させていくにしたがって内藤氏の勢いは衰える。
1533年に波多野氏が内藤国貞を破って丹波を手中にすると1538年には三好氏と結んだ波多野秀忠によって八木城を陥落させられた。
その後、国貞も三好長慶と組み八木城によって抵抗するものの1553年9月内藤国貞の戦死で戦国大名としての内藤氏は滅んだ。

1553年三好長慶が八木城を奪回し、松永長頼を内藤氏の婚姻者とし八木城主として丹波経略を開始するが、彼は三好政権の傀儡に過ぎず、長慶死後の1565年8月に赤井直正の猛攻にあって戦死している。

その後、内藤国貞の遺児・内藤貞勝が1573年に足利義昭と織田信長の決戦の際、京都に出陣し信長と戦っている。
その後も明智光秀の丹波経略に内藤氏も名を留めており、貞勝とする見解がある。
この貞勝がキリスト教を信仰した内藤如安となる(なお、如安は内藤宗勝の子ともいわれる)。
彼は豊臣秀吉に仕え、朝鮮出兵にも参戦、小西行長とともに講和交渉に活躍している。
のち、加賀藩に仕えるもキリスト教禁教令が発布された1614年、マニラに追放され、1626年同地で死去した。

内藤氏(周防長門系)

藤原氏藤原秀郷(又は藤原道長)の一族。
周防国に土着した。
内藤盛貞の代に大内氏に仕え、室町時代中期以降は鷲頭氏に代わって長門国の守護代を務めた。
大内政弘に仕えた内藤弘矩、大内義興・大内義隆に仕えた内藤興盛が著名である。
大内氏の滅亡と同時に興盛の孫の内藤隆世が自刃し、嫡流は断絶したが、興盛の五男の内藤隆春が毛利氏に仕えている。
毛利輝元の母が内藤氏の出身であったため重用されたが、その養子内藤元盛が大坂の陣で大坂城に入城したため子の内藤元珍らもともに切腹し没落した。
以後は子孫が小禄の長州藩士として存続した。

凡例 太字は当主、太線は実子、細線・二重線は養子

内藤氏(三河系)

三河国の松平氏(徳川氏)の家臣で江戸時代に大名となった内藤氏は上述の丹波・周防の内藤氏と同祖とされるが、この間、戦国期までの事蹟は明らかではなく、仮冒の可能性も強い。
戦国時代 (日本)から安土桃山時代にかけて、内藤清長・内藤正成・内藤家長・内藤信成らが徳川家康に仕え活躍し、その功績により江戸幕府の成立後は数家に分かれ譜代大名として隆盛した。

凡例 太字は当主、太線は実子、細線・二重線は養子

内藤氏(甲斐系)

内藤氏には甲斐に土着した一派も存在する。
代々武田氏に仕えたとされるが内藤虎資が武田信虎に殺害され一時断絶した。

なお、武田二十四将の内藤昌豊(工藤祐長)の出自は工藤氏であり、実父の工藤虎豊は甲斐武田氏に仕えていた。
一時小山田氏とともに油川信恵に味方したがのちに信恵を討った武田信虎に許され帰参する。
だがのちに信虎に疎まれ虎資とともに手討ちにされたため、祐長ら工藤氏一族は甲斐国を出奔。
その後、信虎を追放した武田信玄によって、虎豊の遺児の祐長が呼び戻され所領を回復した。
祐長は信玄の為に大いに活躍し、虎資の死後途絶えていた甲斐の名跡内藤氏の名乗りを与えられて「内藤昌豊」と名を改めた。

信玄の没後、昌豊は長篠の戦いで討死する。
その跡は保科氏からの養子内藤昌月が継ぎ、以後は会津保科氏(のちの会津松平氏)に仕えた。

その他の内藤氏

相模国にも内藤姓を名乗った一族が存在し(相模内藤氏)、この内藤氏も秀郷流を称するが定かではない。
また、織田信長に仕えた内藤勝介なる人物もおり、こちらの出自は不明である。
若狭国の武田氏の被官にも内藤氏の一族が存在する。

[English Translation]