大宮家 (Omiya Family)

大宮家(おおみやけ)
藤原北家閑院流の公家。

小槻氏姓の地下家。
官務家と称す。

大宮家(藤原北家閑院流)

大宮家(おおみやけ)は、日本の氏族(公家)。
藤原北家藤原公季流(閑院流)西園寺家の庶流。
家格は羽林家。
家紋は左三つ巴(西園寺家と同じ)。

季衡(右大臣大宮季衡)は鎌倉時代中期の左大臣西園寺公衡の次男。
季衡は西園寺家から分家して大宮家と称した。
季衡の家系は一時期中断した。
しかし、江戸時代前期に内大臣西園寺公益の次男季光(近衛府大宮季光)が大宮家を再興した。
家禄は130石。
しかし季光自身は狂疾のため蟄居し、貞享元年(1684年)に没した。
この家系から公卿が出たのは正三位近衛府大宮昌季(1743年 ‐1804年)以降。
江戸時代では大宮盛季(1768年‐1835年)が正二位中納言になったのが最高位だった。
明治時代に華族に列し、明治17年(1884年)大宮以季が子爵になった。

大宮家(小槻氏)

大宮家(おおみやけ)は、朝廷に仕えた官人の家系。
小槻氏の嫡流の地位を壬生家壬生家(小槻姓)と争った。
小槻広房を祖とする。
長く土御門大宮に邸宅があったことから「大宮」を家号にしたとされている。

小槻氏は中世より太政官の諸記録を司っていた。
五位の官務(左大史上首)を世襲したため官務家と呼ばれた。
しかし、平安時代末に小槻隆職が源頼朝の不興を買った。
兄小槻永業の子である広房が官務に任じられた。
その後、隆職が復帰すると官務の地位は広房の子孫(大宮家)と隆職(壬生家壬生家(小槻姓))の子孫のうち、小槻氏の氏長者にある方が官務の地位に就くことになった。
両家の争いは絶えなかった。
特に室町時代後期の大宮長興・大宮時元親子と壬生晨照・壬生晴富親子の時期には朝廷や室町幕府を巻き込んだ激しい対立となった。

大宮長興は同氏で初めて八省卿(治部卿)に任じられるなど、家名再興に尽くした。
しかし、応仁の乱によって官務の権威の源泉とも言える官文庫とその古文書を喪失した。
一応は文書を守り通して後に自己の官文庫を再建した壬生晴富と明暗を分ける。
長興の没後、先例の蓄積である官文庫の古文書を失った大宮家は官務としての仕事が困難となった。
時元の子・大宮伊治は周防国大内氏を頼って下向する。
伊治の娘は大内義隆の寵愛を受けて後継者である大内義尊を儲けるた。
しかし、天文 (元号)20年(1551年)に大宮家は大内義隆に対する謀反の兵を挙げた陶隆房によって攻められて滅亡した(大寧寺の変)。

[English Translation]